【 論 考 集 】


2023・6・8 長谷川勝彦

■「文章はしやべるやうに書け」といった佐藤春夫の『個人的な余りに個人的な饒舌』の文章の「書きよう」を点検する■

 芥川龍之介は「文芸的な、あまりに文芸的な」というエッセーでこう述べている。

「佐藤春夫氏の言葉を引けば、『文章はしやべるやうに書け』と云ふことである。僕は実際この文章をしやべるやうに書いて行つた。が、いくら書いて行つても、しやべりたいことは尽きさうもない。僕は実にかう云ふ点ではジヤアナリストであると思つてゐる」

 またこうも言う。

「新聞文芸は明治大正の両時代に所謂文壇的作品に遜色のない作品を残した。・・・のみならず新聞文芸の作家たちはその作品に署名しなかつた為に名前さへ伝はらなかつたのも多いであらう。現に僕はかう云ふ人々の中に二三の詩人たちを数へてゐる。・・・かう云ふ人々の作品も(僕はその作家の名前を知らなかつたにしろ)僕に詩的感激を与へた限り、やはりジヤアナリスト兼詩人たる今日の僕には恩人である」

 あの芥川が「ジヤアナリスト兼詩人たる今日の僕」といっている。そう自己規定していることに興味を覚える。美術工芸品のごとくに文章を作り上げ、芸術至上主義の立場をとったとされる芥川龍之介の言としては意外な気がしないだろうか。
 芥川はこうも書いている。

 「若し長詩形の完成した紅毛人の国に生まれてゐたとすれば、僕は或は小説家よりも詩人になつてゐたかも知れない。・・・考へて見ると、最も内心に愛してゐたのは詩人兼ジヤアナリストの猶太人――わがハインリツヒ・ハイネだつた」

 芥川はジャーナリストということばにどんな意味を込めていたのだろうか。詩人をどういう存在と捉えていたのか。「詩的感激」と言っているものと文章を「書く」ということとどう関連づけているのか。
 芥川が「書く」とは何をすることであると考えていたのか、もっと知りたくなるのだけれど、これは今後の課題とし、ここでは、佐藤春夫のいう「文章はしやべるやうに書け」について考えていきたいと思う。

  

~「文章はしやべるやうに書け」といった佐藤春夫の『個人的な余りに個人的な饒舌』の文章の「書きよう」を点検する~

 芥川のいう通り確かに「文芸的な、あまりに文芸的な」というエッセーは、ここに引いたものを見ても、しゃべるように書いてあると思われる。ところがである。そう言った佐藤春夫の書いた文章をみると、一見とてもそうではないように見えるのだ。
 とりあげるのは、
「個人的な余りに個人的な饒舌=龍之介対潤一郎の小説論争=」
 と題された文章で、よく知られた、芥川龍之介と谷崎潤一郎の文学論争について書かれたものである。「個人的な饒舌」とあるように、口にすることば、「話しことば」を自覚していたと想像するのだ。
 その佐藤春夫の文章を細かく分析し、実際「しゃべるように」書いてあると言えるのかどうか、検討することにしたというわけだ。あるいは朗読者の立場から言って、これをしゃべるように読むのはどうしたら可能か、と検討することになるだろう。

 まず何をしたかというと、散文として文がいくつも直線的に連なって書かれている文章を、一文ごとに、行替えをして表記してみた。このほうが「しゃべるように」口にする(声に出して読む)のに適していると思ったからで、実験的にこうしてみたのだ。
 そして、実際に「しゃべるように」この通り音声にできるかどうか、声に出してみた。
(皆さんもどうぞ以下の文章を「しゃべるように」語ってみてください。)

帝国ホテルのロビイで太く短い丸太の薪のうへを這ふ炎を見つづけながら、我々が交々に語つた、文芸的な余りに文芸的な饒舌の、一夜の間に展開したさまざまな話題のなかにも勿論、時にはお互に意見の背馳する事があつた。(✴︎1)
互に争つて自説を開陳し主張した。
とは云へそれは決して論争といふものでは無く、相手と異つた自説を披瀝して喜ぶだけの事であり、他の説に服しない場合にも他説の不備を指摘してその反省を促す程度のもので、所謂論争のやうな熱情も伴はず、論旨としても敢て徹底を期してゐるのでも無く、云はば温雅な談笑に多少の波瀾を求めるためのものであつた。(✴︎2)
相手が自説に服すると否とはもとより問題では無い。
そんな事よりも彼等はその間に気の利いた表現の一句でも見つかれば満足したのである。
彼等はそれほど都会人であり、またエゴイストである。
論争などといふ田舎議員のやうなヤボなふるまひを公然と出来る種族ではない。

 それ故「饒舌録」も「文芸的な余りに文芸的な」も何れ劣らぬ興味津々たる文藻であり、その学識は畏敬すべく論旨は傾聴して蒙を啓かれる節に乏しくないにもかかはらず、その主張しようとする要旨は改めて読み直してみても、依然としてあまり明確にならないのは決して僕の理解力や把握力の不足のためではない。(✴︎3)

 以上のような文章である。この文章を素材として分析したい。
 やってみてどんなことに気づいたか、どんなことが判ったか、これから詳しく述べていこう。
 率直に言えば、このように書き直す以前には、「しゃべるように書いた」とはとても思えなかった。特に✴︎の印をつけた、長い一文が三つあるが、これらは、とても「しゃべる」ようには言えないだろうと感じた。
 ではあるが、本当にこんなに長い文は「しゃべるように」口にできないのかどうか。こうすれば言えるという方法はないのか。検討していきたい。
(どう読めばいいのかという朗読の基本のところにつながるのではないか)
 
 休止(休んだり息をしたりするところ)の記号(「/」)をつけて、一文ごとに検討していく。(/)は短い間(//)は長い間を示す。

 帝国ホテルのロビイで/太く短い丸太の薪のうへを這ふ炎を見つづけながら/我々が交々に語つた//文芸的な余りに文芸的な饒舌の/一夜の間に展開したさまざまな話題のなかにも//勿論、時にはお互に意見の背馳する事があつた。

 まずこのように切れ目(休止するとこと)を入れれば、声に出して読むことが可能になるように思うのだが、実は、この「/」や「//」という記号をどこに使うかを決定するには、文章を読解するためにの思考を重ねた結果であると理解して欲しい。
 その思考の道筋をここに明示していこうと思う。
 まず、このようなかたまりとして認識したのである。これがはじめの一歩なのである。

1(帝国ホテルのロビイで太く短い丸太の薪のうへを這ふ炎を見つづけながら我々が交々に語つた)話題がある。
2その話題は(夜の間に展開したさまざまな)話題である。 
3その話題の中にも(勿論、時にはお互に意見の背馳する事があつた)

 そのうえで、この文を読解するとは、この3つの認識を一つの文(一まわり大きいかたまり)として統合して認識することなのである。さらに言えば、この統合して認識するために是非とも欠かせないのが、先に「/」で示した休止なのである。
 音声にする際にはその休止なしには不可能といえるのだ。
 音声は人間の呼吸、吐く息を利用しているのであり、音声を出しつづけるには自ずと限度がある。時折、息を吸わねばならないし、そのとき声は出せないのである。
 そして、その吸う息は、通常の状態のときのように息がなくなればと吸うといったものではなく、文の読解に基づいて、適切なところを選択して息をしている(息を吸って)のである。
 そうすることによって、「一つの文として統合して認識する」が可能になり、その文を音声として表すこと可能になるのである。

 言いかえれば、

 我々が語つたさまざまな話題のなかにもお互に意見の背馳する事があつた

 という簡単な文ならしゃべるように音声にするのはたやすくできることなのに、文が複雑になると、それができにくくなる。
 簡単な短い文は一息で発音することが自然にできるからだ。
 複雑な文になると、文の構造が複雑であり、自分の息をその構造に合わせていかねばならなくなる。息をする箇所をみつけて行くこと(「/」の記号をどこにおくか)は、文の構造を明らかにしてくれることになるのだ。

 長い(複雑な)文は短い(単純な)文にくらべ読むのが難しくなるのは、次のような事情もあるだろう。もともと言いたかった文の内容が(これを文の骨格、「幹」と私は言っている、それが枝葉に隠れて)見えにくくなってしまうからなのだ。
 それが見えるように「/」や「//」という休止をつけたのである。
 もう一度先ほどの例文を口にして、ここで述べたことを納得していただきたい。

 さらに、「しゃべるように」言うためには、こんなことも考慮しないといけない。
(文芸的な余りに文芸的な饒舌の)という語句が休止なしに一息に続けて発音されることは理解しやすいだろう。「文芸的な余りに文芸的な」は芥川の文章の、「饒舌録」は谷崎の文章のタイトルなのだから。そのことが意識されている語句であるということ。
 そして、

(〈太く短い丸太の薪のうへを這ふ炎〉を見つづけながら)
(〈一夜の間に展開したさまざまな話題〉のなかにも)
(勿論、時には〈お互に意見の背馳する事〉があつた)

 これらの語句も、しゃべるとき、一息で発音される。
〈 〉で示された部分は一つの名詞に等しい働きをしている語句なのだ。
 それぞれ

〈・・〉+(を見つづけながら)
〈・・〉+(のなかにも)
〈・・〉+(があつた)

となっていて、
 これなら一息で言うのもむずかしくはないとわかるだろう。
 これらが一文に統合された全体を一息で発音する(しゃべる)のではないのである。そこを勘違いしてはいけない。

 次の文の検討に移ろう。これも一文としてはとても長い。枝葉が多く幹を見定めにくい。

 とは云へそれは決して論争といふものでは無く/相手と異つた自説を披瀝して喜ぶだけの事であり/他の説に服しない場合にも他説の不備を指摘してその反省を促す程度のもので//所謂論争のやうな熱情も伴はず/論旨としても敢て徹底を期してゐるのでも無く/云はば温雅な談笑に多少の波瀾を求めるためのものであつた。

(//)としたのは、ほかの(/)のところより長く休止を置くという意味。ここで息を吸うという処でもある。
 こうしたのは、実はこの文の骨格(幹)は何かと考えた結果なのである。どう判断したかというと、この文は、

(とは云へそれは・・・促す程度のもので//・・・温雅な談笑に多少の波瀾を求めるためのものであつた)

 とまず文の全体像の概略をとらえた。
 このことは、重要で、文の理解はまず全体像の把握が初めにあり、細部についての認識はあとからになる。このことは実は言語についての大事な認識で、われわれがしゃべるとき、何を言いたいのか、その全体像があらかじめイメージされているものなのである。
 ともあれ「/」が短い休止で「//」が長い休止である、その二つが文の読解に必要だということ、がわかっていただけたであろうか。

 ここで持論を述べておこう。
 こうした長い文は、内容的には二つのことを言おうとしているのである。
 一つの文は必ず一つの内容でなければならない(言いたいことが一つに)という決まりがあるわけでは決してない。
 このことを理解しておこう。
 こうした二つの文に分けても内容的になんら変わらないのだ。

● とは云へそれは決して論争といふものでは無く、相手と異つた自説を披瀝して喜ぶだけの事であり、他の説に服しない場合にも他説の不備を指摘してその反省を促す程度のもので(ある)。

● (またそれは)所謂論争のやうな熱情も伴はず、論旨としても敢て徹底を期してゐるのでも無く、云はば温雅な談笑に多少の波瀾を求めるためのものであつた。

 この長い文を理解するためには、このように二つの部分に分けて書いてあると読み取ることが肝要で、これができて初めてこの文を理解できると言ってもいい。全体の把握が最初なのだ。
 「//」は、他のところより長い休止である印であるが、それだけの意味合いにとどまらず、そこのところで文が終止したかのように読むということであり、そのあと二つ目の文を読みはじめるのである。
 (そこで休止したかのように)である。そこで文が終わったのではない。この違いを理解し、音声にして区別できるようにならねばならない。このことはぜひ会得してもらいたい。

 このように朗読において(しゃべるよう読むためには)、長い文の場合、二種類の休止(長い、短い)を使い分けることが肝要になる。このことは文章の表現している内容(構造)の理解に直結しているとはすでにのべた。
 そう理解できれば、この文の場合は半分の長さの文を二つ読むことと変わらなくなり、楽に「しゃべるように」声にできるだろう。

 さて、今度は、ひとつながりで発音すべき部分についてみてみよう。
 元にある表現方法の形があることに注目するのだ。言葉の使い方のパターンを見つけことである。

(とは云へそれは決して論争といふものでは無く)は
(とは云へそれは決して○では無く)というかたちの語句であり、
 ○のところに「戦争」「平和」「上品」等々入れることが可能だ。
 以下同様に。

(相手と異つた自説を披瀝して喜ぶだけの事であり)は
(○して喜ぶだけの事であり)という表現形が元にあるということ、

(他の説に服しない場合にも他説の不備を指摘してその反省を促す程度のもので)は
(○の場合にも○して○する程度のもので)という言い回しの形が元にある。

(所謂論争のやうな熱情も伴はず)には
(○のやうな○も伴はず)があり、

(論旨としても敢て徹底を期してゐるのでも無く)には
(○としても敢て○のでも無く)という言い回し方が元にあり、

(云はば温雅な談笑に多少の波瀾を求めるためのものであつた)には
(○に○を求めるためのものであつた)という言い回し方が元にあるのである。

 ○のところに任意の言葉(漢字の語)を入れて、実際に声にしてみよう。様々な表現に活用できる、一息で言うべき語句であることが納得できるだろう。これらは「言い習わされたパターン」(ある一定の形を持つ)と言える語句であるといえよう。
 日本語にはこのような言い回し方が以前から用いられてきたのである。現代風な言い回しではなく、今の我々がしゃべるとしたらこんな言葉遣いはしないと思われる。こうした言葉遣いが「しゃべるように」とは、かけ離れていると思う要因をなしているのかもしれない。

意見の背馳する事
自説を開陳する
自説を披瀝する
敢て徹底を期してゐる
温雅な談笑に多少の波瀾を求める
自説に服すると否とはもとより問題では無い
何れ劣らぬ興味津々たる文藻
その学識は畏敬すべく論旨は傾聴して蒙を啓かれる節に乏しくない

 こうした漢語、漢文にもとづく言葉、語句は我々にとって、話し言葉には出てこない言い方であって、これを口にしてしゃべるなど出来そうもないと思えるのだろうが、これは時代を考えなければならない。
 この文章が掲載されたのは、(「文学界 第五巻第七号」1951(昭和26)年7月1日発行 )だが、明治時代後期に育ち成人となった佐藤春夫(1892年(明治25年) - 1964年(昭和39年))にとって、これらの言い方は、馴染深い、ごく普通に普段から口にしている言い回しに過ぎないのだろう。本人に聞けば「しゃべるように」書いているのである、と言うに違いない。
 漢語、漢文にもとづく言葉、語句が多く使われているからと言って、それが即、「しゃべるように」書かれた文章と言えない、と判断するのは誤りだろう。
 そしてまた、こういうことも言えるだろう。漢語、漢文にもとづく言葉、語句に馴染んでない我々は、こうした語句を多く含む文章を朗読するとき、これらの語句を馴染むまで口にして、口に馴染ませなければならない。それができて初めて「しゃべるように」読んだと言えるのだろう。

 さて、もういちど
 佐藤春夫のエッセーから、✴︎の印をつけた長い文をもうひとつ検討しよう。

 それ故「饒舌録」も「文芸的な余りに文芸的な」も何れ劣らぬ興味津々たる文藻であり//その学識は畏敬すべく論旨は傾聴して蒙を啓かれる節に乏しくないにもかかはらず/その主張しようとする要旨は改めて読み直してみても、依然としてあまり明確にならないのは/決して僕の理解力や把握力の不足のためではない。

 このように休止を入れて読むことになろう。
 一点、原文に「、」のないところに「/」を入れた。

「あまり明確にならないのは/決して・・・の不足のためではない」

としたところだ。「は」という助詞はあとに休止を入れると、聞くものの理解を助けるという作用がある。そう判断した。
 さて、この長い文が、こうした2つの文からなると読み取れば理解しやすいだろう。

1(饒舌録」も「文芸的な余りに文芸的な」も何れ劣らぬ興味津々たる文藻である) 

2(その学識は畏敬すべく論旨は傾聴して蒙を啓かれる節に乏しくないにもかかはらず・・・)
 (その主張しようとする要旨は改めて読み直してみても、依然としてあまり明確にならないのは・・・)
 (決して僕の理解力や把握力の不足のためではない)

 2つの文といったがこの場合、初めの文(1)は短く単純だが、続く文(2)は3つの部分からなった複雑な文だ。ただしこの3つの部分はつながっている(意味の上で切れ目がない)ので、(・・・)で表した。

(節に乏しくないにもかかはらず・・・あまり明確にならない)

 とつづくのであり

(明確にならないのは・・・不足のためではない)

 とつづくからである。これをさらに語法(言い回し)として理解するには、

(にもかかはらず・・・にならない)
(ならないのは・・・ではない)

 という言葉の使い方のパターンに基づくと考えればよいだろう。

 書かれたものを声にした時、聞いた人が「しゃべるのを聞いているように」思うには、どんな条件がいるのだろう。ここで述べてきたことをまとめると、

○ その文が何を言いたいためにあるのか、大雑把に全体を把握する。
○ 長い(複雑な)文では「/」「//」で文の構造をはっきりさせる。
○ 自分勝手な呼吸ではなく、息をその文の構造に合わせる。

 さらに何がいるのだろうか、考えを進めよう。朗読のためには是非ともやるべき作業だろう。
  ここまで述べてきたように、長い文でも休止を適切にとって、呼吸との兼ね合いをうまくすれば、しゃべるように語るということができると言っていいのではないか。また、一息で発音する長い語句も基本形がどうなっているのか検討し、それを応用した語句だと認識すると、発話(実際に声にすること)しやすくなることが納得できただろう。
 なんども読めば(黙読でいい)、つまり「何が書かれているか」について理解は深めることだ。すると、これならしゃべれそうだと思えてくる。

 そしてまた、どんなことがネックになってしゃべれそうもないと思うのか、つまり「どんな風に書かれているか」が仔細に見えてくると、それができそうだと思えてくる。

 内容の理解と書き方への理解、この二つが「しゃべる」には必要なのだ。これは朗読の基本だ、というのが私の持論。こうしたことを朗読の実践にどう結びつけるか、その道筋をこの論考集で述べているのである。

2023・6・8 長谷川勝彦