【 論 考 集 】


2020・4・27 長谷川勝彦

■ 澁澤龍彦「護法」に逍遥し、その語法に触れる ■

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 澁澤龍彦の作品(特に後期の小説)の魅力について考えるに、書かれているコンテンツの奇想天外な、現実離れした大人のメルヘンぶりにあるといえばいいのだろうが、それだけとは言えない気が残る。
 文章自体にその秘密が隠されているのではないか。
  わたしはひそかにその文章の魅力の一端に、いまではそうした言い方をあまり言わなくなった「言い回し」(「語法」)が多用されていることがあるのではないかと思っているのである。
 そこでシャレではないが、「護法」(作品集「うつろ舟」所収)という作品を例に、そうした「言葉遣い」(「語法」)を片端からとりだしていくことにした。
 わたし流の澁澤作品の鑑賞法なのだと言えばいいのだろうか。順を追って話の道をたどっていくだけ。澁澤作品をたどる「逍遥」と称した所以である。

(文中「辞書」とあるのは「大辞林」からの引用)

 鎌倉は泉ヶ谷の奥にある・・・の塔頭の一つ ・・・ 「東京は山手線の駅の一つ渋谷駅」という風に使うが、いささか古めかしい言い方だろう。この「は」の用法、いまどきのテレビリポーターが使うとは思えない。

 いまは荒れはてて見るかげもない・・・「いまは・・・見るかげもない」と使う、慣用句。・・・に「痩せこけて」「みすぼらしく」と何でもはいる。

 さだめて・・・恐怖心をあおったにちがいない ・・・ 「さだめて・・・ちがいない」という語法。「さだめし」ということもあるだろう。「さぞ」もある。現代口語としては「きっと」に一本化されてしまっていて妙味にかけるといえまいか。

 足を向けることをはばかる・・・慣用表現、「人目をはばかる」「外聞をはばかる」とつかい「さしひかえる」意、「憎まれっ子世にはばかる」の「はばをきかせる」とは意味が異なる。コロナ禍のいまは「外出をはばかる」ようになっている。

 談たまたま化けものばなしにおよぶ・・・「談たまたま」で「談」と「たまたま」がセットでつかわれる、「談」とくれば「・・・に及ぶ」これもセットで、「談(たまたま)・・・におよぶ」という定型表現がある。口語ではつかわれないだろう。漢文由来の語法であろう。

 町人にあるまじき僭上をしたという廉で・・・「あるまじき」は近頃とんと聞かないことば。「僭上」とは「身分をわきまえず、さしでた行為をすること」で「僭上のふるまい」とつかう。身分制度下のことば。「町人の身分をわきまえず、さしでた行為をした」というより「町人にあるまじき僭上をした」の方が「江戸十里四方追放の処分を受け」という時代にふさわしいと言えるだろう。「事」「罪状」などと言わず「廉(かど)で」というのも同じ。

 痩せても枯れても・・・近頃聞かなくたった。「痩せても枯れても男一匹」などといい、以前はよく話芸で耳にした。「落ちぶれ果てても」も同じような慣用表現。そういう表現がピッタリな人がいなくなったわけではなく、表現をしなくなっただけだろう。
 
 気を呑まれたように・・・「気」ということば大辞林をみると13通りものニュアンス、用例の違いが書かれていてじつに微妙な差異を区別している。この場合は「外界を認識し、外界と自分との関係を理解する心の働き」であろう。「気を失う」「気がつく」という例を挙げている。「気を呑まれる」は書いていない。「・・・すぐにはことばも発せられない」とあるので言わんとすることはすぐわかる。誰があるいは何が「呑む」のかというと「その場にできた雰囲気」なるものではないか。津波に呑まれる、闇に呑まれる、などと受け身でつかわれ「包み込む」という意。

 すぐにはことばも発せられないありさまだった・・・「ありさま」は物事の状態、様子をいう。有(り)様と書く。同じ字で「ありよう」と読むと「教育のありよう」のように「あるべきすがた」という意味になる。

 身がすくむほどびっくりした・・・「びっくりする」を「身がすくむほど」と形容するのだが、「毛が逆立つほど」「血の気が引くほど」の方が凄さがあり恐怖感にふさわしいかもしれない。いずれにしても身体の変化から類推する表現は少なくない。「顔を真っ赤にして」「青筋を立てて」これらは「怒る」を形容する。定型的、慣用的つまり伝統的表現であり、日本語話者ならぴったりくる、安心できるということがあるのだが、定型的だという点で避けられることがあるのだろう。澁澤龍彦は、伝統的表現であるという点で慣用表現を好んで使うのだと私は思う。つまり日本語の伝統を大事にする。

 酔いもさめはてたけしきと見えた・・・「酔いもさめはてた」はまさに慣用表現、「酔いもさめた」だけでは語調が整わないのだ。「酔いもさめたようすだった」ですむことだが、文章としての魅力にかける。
「けしきと見えた」との表現は澁澤龍彦の小説作品に多用されていることを指摘しておこう。わたしも石川淳の作品でつとに知っていた表現だ。その影響ではないかと睨んでいる。この二人の作家の文体の基底に「けしきとみえた」があるといっておきたい。
「けしき」は「景色」ではなく「気色」の方。「おもてにあらわれでた心の動き」とあって「臆する気色もなく進み出で」という用例が、また「何かが起ころうとする気配」とあって「雨は止む気色もない」という用例がのっている。

 つらつき、きかん気のいたずら小僧、ずんぐりむっくりした・・・これらの表現は今ではあまり聞かなくなって懐かしいと言いたい。「痩せても枯れても」と同じで、こんな表現がピッタリな子供がいなくなったわけではないだろう。ノスタルジーを感じさせると言えまいか。我々の年代のものには懐古趣味、懐旧の情にうったえるのだろう。

 肝を冷やされた・・・これも身体的な表現の慣用表現。「肝が据わる」というのもある。日本語として覚えておきたい。「きもい」という若者言葉もある。「肝いり」となると江戸時代の名主、庄屋の異名であり「あれこれ世話や斡旋をすること、またはする人」をいう。

 腹をかかえて笑いに笑った・・・「笑う」ときに「腹をかかえる」、「悩む」ときには「頭をかかえる」。「尻」で探すと「尻が長い」「尻に敷く」「尻に火がつく」「尻拭い」など身体各部にかかわる言い方は沢山ある。

 まなこの光すさまじく・・・「眼光(がんこう)すさまじく」が慣用だろうが「まなこ」とした。きかん気のいたずら小僧、ずんぐりむっくりした童子の眼についてだから、だろうと想像する。

 肝っ玉も縮みあがり・・・いくつもでてくるおなじみ身体的表現。「肝っ玉が大きい」「肝っ玉が据わる」「肝っ玉が太い」「肝に銘ずる」「肝を据える」「肝を潰す」「肝を冷やす」などなど。縮み上がるものがもう一つある。いずれも口語的表現で俗語っぽいと言えるが日本語の大事な要素。

 近づくどころの段ではない・・・「段」は場面、局面といった意味だが、「・・・どころの段ではない」と・・・にいろいろ言葉を入れて使う慣用句。「近づく場面ではない」と意味合いを強めている「どころの」を抜いてみると、なんとも面白みのない表現になってしまう。「忙しくて旅行どころの騒ぎではない」で、そのニュアンスは知れるだろう。「・・・どころの段ではない」「・・・どころの騒ぎではない」と似たような昔からある言い回しだ。

 いかにも業腹だ・・・辞書は「業腹」を「非常に腹の立つこと」といい仮名垣魯文の西洋道中膝栗毛の用例「しゃべりまけるなあ業腹だから」をあげる。江戸弁か。
「業を煮やす」も腹をたてる意。「いかにも」は「どう考えても」「予想の通りであるさま」とある。とにかく「いかにも業腹」という言い方は近頃とんと聞かないが、知っていて悪くない。こうしたことばの語感を失いつつあるように感じるが、それは決していいことではあるまい。

 ぽつねんと・・・たっている・・・「しょんぼり」「とぼとぼ」という類語。「ぽつねん」とはどこから由来することばだろう。「ぽつ」とはなんだ。漢字で書くとして「ねん」とは「念」か「然」だろうか、想像を刺激する。
「ポツンと立つ」というから副詞「ポツンと」から来ているのだろう。それを「ぽつ然」「ぽつねん」と漢語じみた言い方にしたのに違いない。「勃然」「鬱然」があるではないか。

 おのれの背にひっかつぐ・・・「自分の背中に担ぐ」という平凡な表現をこの場面にふさわしくしたということか。「ひっかつぐ」で躍動感、スピード感があらわされる。

 あとも振りむかずに堂を出た・・・「後ろも振り向かないで」ではいけない。躍動感、スピード感だろう。

 夜道を一目散・・・定型的、伝統的表現。歩いたり走ったりする様を形容する類語に「一散に」「えっちらおっちら」「しゃなりしゃなり」「すたすた」「てくてく」「とぼとぼ」「のこのこ」「真一文字に」「よたよた」「よちよち」とある。二本の足で歩いたり走ったりするので、同じことばを二度繰り返すことであらわすのが多く面白い。「えっちらおっちら」はそれがずれて描写が的確になっている。

 気ばかりせいてあたまはからっぽ・・・「せいては」は「急いては事を仕損じる」という格言にある。「からっぽ」は「中に何もはいっていないさま」で「財布」にも使う。

 笑いくずれて、とどまるところを知らなかった・・・「姿勢が崩れるほどひどく笑う」と昔の人は感じた。それほど姿勢を気にしていたのだ。「笑いくずれる」ことは今でもあるけれども。
「・・・ところを知らない」は「そうすべき時点」を「知らない」という意味合いで、「止まる所を知らない」は「勢いがいつ止まるのか予測できない」ということ。「止まる所を知らないウイルスの感染拡大」のようにつかわれる慣用表現。

 失礼の段ひらにご勘弁をねがいます・・・「失礼の段」は手紙、文書につかわれ、体言(名詞)となって「勘弁」の目的語として働く語句。さらに「ひらにご勘弁をねがいます」の「ひらに」というへりくだっていう言い方がついた常套的な慣用句。

 すでに短い夏の夜がしらじらと明けはなれようとしていた・・・「しらじらと」は古くは「しらしらと」といった。「明けはなれる」は「夜がすっかり明ける」こと。
「・・・ときには、すでに・・・ようとしていた」という語法で、「すでに彼の乗った飛行機は・・空港に着陸ようとしていた」などさまざまに応用が効く。

 親しい交わりをむすんだ・・・「親交を」としない。

 満ちたりた思いにひたされて・・・「満足」をつかわない。この二つの例も澁澤龍彦の小説文章術の一端かもしれない。
「親交」「満足」では平凡に堕するというか味わいに乏しいと考えたのだろう。それでは抽象に過ぎない。具体的、身体的を求めたのではないだろうか。

 こころが浮き浮きしてくる・・・「浮き浮き」の類語に「いそいそ」「ぞくぞく」「るんるん」「わくわく」とある。これらは「擬態語」という。「擬音語と違い音声を直接的に言語音に模倣するのでなく、象徴的に言語音に写したもの」で、この論考にもすでにいくつか登場している。
 井上ひさしは「あることがらをできるだけ委しく、生き生きと、そして具体的に語って、聞き手や読み手を自分の作った世界に引き摺り込みたいなら、擬音語や擬態語をどしどし使って構わない」と言っている。「自分の作った世界に引き摺り込みたい」澁澤龍彦の小説文章術で擬態語は大いに使われる。

 狐につままれたような・・・「狐につままれる」は「意外ななりゆきに訳がわからなくなり、茫然とする」という意味の成句。「つまむ」はもともと指先の動きをいい「つままれる」は指でつままれるということで、狐がそんなことができるのか。化かされることをそういったのだろう。

 お駒、酒だ、酒だ・・・女房に酒を言いつけるときかならずこう言う。面白いこと。
「酒だ!」の一言ですまさない。友と呑むにしても独りで呑むにしても酒を呑む心の弾みがうしろに「聞こえる」。

 めっぽう酒に強い・・・酒に強いのは「滅法」にきまっているもの。「滅法」は元来仏教用語、程度が甚だしいことを言う。「無茶苦茶」、「滅茶苦茶」という類語があって、まあ俗語ともいえよう。ムチャクチャとかメチャクチャとか片仮名で表記したくなる。

 てんであたまのあがらぬ・・・「てんで」は「慨嘆や侮蔑の意味を伴って、まったく」との意。「まったくもって」ということもある。
「あたまがあがらない」というのは「相手の力や権威に圧倒されたり、負い目があったりして、対等に振る舞えない」とあきれるほど的確に辞書に解説されている。見に覚えのない人はいまい。

 亭主関白をほしいままにしていた・・・亭主関白の対義語として嬶天下としてある。女房大明神というのもいいが、やや方向が違うかも。
「ほしいまま」やりたいままにふるまうこと、漢字語の放縦、恣意、擅斷などから「縦」「恣」「擅」などの字があてられる。

 盃を応酬しながら・・・「やりとり」をいう。口語で「やったりとったり」「差しつ差されつ」とある。「差しつ差されつ、差されつ差しつ、蜂の喧嘩じゃないけれど」とは都々逸の文句。「応酬」「献酬」となるとおのずと礼節が伴う。

 酒豪ぶりときたら底ぬけ・・・「・・・ときたら底ぬけ」という語法で「あきれるほどひどいこと」なら・・・に何でもはいる。「お人好し」「あわてもの」等々。もともと「底ぬけ」は「底ぬけ上戸」の略というから、酒豪、大酒呑みをいうのに使うのが本筋だろう。

 太刀打ちできるものではなかった・・・「太刀打ち」とは「物事を張り合って競争すること」と一般的な意味に広がった語。「底ぬけ」と同じで「比喩的語法」と言えるだろう。「入れ物の底がぬけているかのように限度がない」「太刀を打ち合っているかのように張り合う」というわけ。

 前後不覚に眠ってしまった・・・慣用句と言っていいだろう。前後不覚といえば「眠る」と続くもの。漢字が読めないとすぐに理解はできまい。

 とうに辞去したあとだった・・・「疾くに」の転とある。「とっくに」は口語的で「とっくの昔に」と今でも使う。「疾うから」「夙くに」などは文章語的だ。

 三日にあげず・・・「毎日のように、間を開けずに」というのだが、「あげず」とは何だろう。連語とあるから「あげ」と「ず」の連なった形なのだと思うが、わけがわからない。意味は「間を置かないで」だというのだが。
二日にとか五日にでなく、必ず三日に。そういうものと理解するしかない。三日「に」なのはどういうこと。お手上げだ。
「三日にあげず」「毎日のように、間を開けずに」と、言葉と意味とを憶えるしかない慣用語。

 歓談はてしなく・・・これも慣用句。「歓談」うちとけて楽しく語り合うこと。閑談や懇談もある。「はてることなく」といういい方もする。