【 論 考 集 】


2022・10・2 長谷川勝彦

■ 池澤夏樹「都市生活」を読んで「語り手」というものを考える ■

 朗読するつもりになってあらためて小説を読む、そこで考えるべきことは次の二つのこと。

 この小説にはどんなことが書かれているか、何が書いてあるのかということがまず一つ。
 つぎには、どんな風に書かれた小説かをみる、この作品はどう書かれているかということ。

 つまり鑑賞と分析、この二つを併せてしなければならない。
 
 私の朗読教室の進め方は、テキストをみなさんと一緒に声に出して読み進めながら、どんなことがそこに書かれているのか、書かれている出来事なり登場人物の行動なりをどう読み取っていくべきか、鑑賞すると同時に、併せてそうしたことがどのような書き方で述べられているか、どんな文章作成上の技巧が使われているか、どんな「仕掛け」がなされているのか、つまり小説というフィクションを言葉だけでこしらえる上でのやり方についての分析をもしていこう、というものです。

 今回は池澤夏樹「都市生活」(新潮文庫「きみのためのバラ」所収)を対象に考えていこうと思う。

  

~池澤夏樹「都市生活」を読んで「語り手」というものを考える~

 朗読するつもりになってあらためて小説を読むにあたって、考えるべきことは二つ。この小説にはどんなことが書かれているか、何が書いてあるのかということ、に加えて、どんな風に書かれた小説かをみる、この作品はどう書かれているかということの二つだ。
 つまり鑑賞と分析、この二つを併せてしなければならない。

 さて「都市生活」という作品をかいつまんでいえばこうなるだろう。
 作中人物である「彼」についての物語。内容的に見れば、思い違いから飛行機に乗り遅れた、時間にして3時間半ほどの彼の行動が描かれたもの。
 これを「仕掛け」の上からみると、語り手が「彼」の「視点」で語る作品である。とはいえ、語り手が前面に出てこないように、語り手はできるだけ目立たないようにしたい。そのような書き方がなされている。

 ある出来事なり事件なりについて語るのに、(作者が自分の代理としてこしらえた)語り手が外側から報告したり説明したりする小説の書き方がある(芥川の「蜘蛛の糸」などを思いおこそう)。
 一方でその出来事(事件)や作中人物の行動を作者(語り手)という第三者を介さずに、読者に、それらを直接見ているように、その場に立ち会っているように、感じさせる書き方がある。

 小説の歴史から見ると前者の方が古く古典的で、後者の方が新しく現代的とは言えるでしょう。前者の方がいわゆる「語りの魅力」に富んだものが多く、朗読するものとって捨てがたいものがあって、人気は衰えてはいない。  
 人気作家といわれる司馬遼太郎や藤沢周平などの作家たちは、個性にあふれた独特で魅力的なその語り口で多くの読者を得た。小説といえばこうした書き方の作品を思い浮かべるのが一般的といえるでしょう。

 それはともかく、池澤夏樹の「都市生活」という短編テキストはそうした書き方ではありません。後者の作品です。こうした作品も決して少なくないのです。そこには語り手を目立たないように、できるだけ消す「仕掛け」がほどこされているのです。
 こうした書き方は一般的な読者にとって馴染みがないかもしれませんが、文学史の上で考えれば、書き手の側の新しいチャレンジとして始められたと言えるでしょう。

 そこには、どんな「仕掛け」があるのでしょうか。
 つぎの二つのポイントがあげられます。

◎ 一人の人物の意識に視点を定める。

 「意識の流れの小説」といわれるものにはこうした「仕掛け」があるといわれます。小説理論のはなしはともかくとして、「意識」とはそもそもどんなものでしょう、と考えることは大事で、そう難しいことではありません。
 こう考えてみてください。
 朝、目を覚まして自分が自分であり、生きているということを知るという漠としたことから始まって、頭に浮かんでくるすべて、考える、思う、感じる、認識、想念、妄想等々、さらには目、耳、鼻、皮膚、舌の五感で知覚すること、そして記憶を思い浮かべることにいたるまで。他人には見えないつまり外からは決して伺うことのできない、人間の内面(脳内)で起きることのすべては「意識」の働きと言えるでしょう。
 つまり人間の内面から人間が思うこと、行うことを描き出そうとする叙述の仕方があるのです。ここでは人間を外側から見て報告する存在などいらないと考えるのです。

 そして、二つ目のポイント。

◎ すべてが場面として叙述される。

 「物語芸術には二つの表現形式がある」と言われます。(前田彰一著「物語の方法論」~言葉と語りの意味論的考察~)

 それによるとこうあります。

1 出来事の経過をかいつまんで報告する様式ー要約の報告
(過去にすでに起こったこととして報告される。重要な出来事だけがかいつまんで知らされる。語り手が関心を示していない、掴んでいない情報は伝えない。自分なりの価値判断で要約している)

2 出来事の経過の細部を詳しく描写する様式ー場面の描写
(経過が細かく、目の前で起こっているかのように、いきいきと体験させられる。現場に居合わせるかのように思う。ある時間と場所で起こり、持続していく一つの出来事。完了するまで続く現在進行中の行動である)

 「都市生活」ではどうでしょう。読めばすぐわかるように、2の「出来事の経過の細部を詳しく描写する様式」で描き出されています。現在進行形の場面の連続に終始するのです。物語の上での「今」が刻々と移っていく作品です。

 さて、この二つ表現形式は私の旧著「メディアの日本語」でも述べていますが、朗読に引きつけて考えると、この二つを「要約した説明」の(語り)と「場面の実況」の(語り)の二つと表現した方が適切だろうと考えます。
 朗読は声で表現するので(語り)としておくのです。
((読む)とどう違うか。「よむ」から「かたり」へ、というのが私の主張の核心ですが、それは別の機会におって論ずることに)

 つまり小説は「説明」する部分と「実況」する部分から成り立つ。
 だが、ここに問題が生じます。「説明」なら「語り」といっても相応しく感じられ、問題がないと感じられるのですが、「実況」で表される部分である「場面」となると、「語り」というには違和感が生じるのではないか。

 語り手が消去されている、あるいは目立たなくなっているので、通常の「語り」のイメージではそぐわないでしょう。ややこしい話と思う人もあるでしょうが、このあとテキストに従って実地に説明していくことにします。
 朗読のテキストとして作品を読んでいくということをしましょう。

 冒頭の場面。以下、前回触れたことではありますが、補足して詳しく説明しましょう。

「ご予約を変更なさいましたか・・・」と聞かれて彼はうろたえた。

 「聞かれて」という受け身形で書かれてます。
 彼の意識に視点が置かれているからです。
 彼は「聞かれた」のであって「聞いた」のではない。
 「ご予約を変更なさいましたか・・・」は彼が聞いた声としてある。
 空港のカウンターにいる女性の声であるけれども。

 つぎに「うろたえた」という意識が実況される。
 ここで「と」に注目し、仮にこうだったらと考える。

「ご予約なさいましたか・・・」と聞いて彼女は微笑んだ。

 これならごく普通の形で、昔から芝居の台本につかわれれた「ト書き」の「と」から生まれたセリフの部分の書き方だとわかる。
 その上でテキストの文に戻ると、
「ご予約を変更なさいましたか・・・」はカウンターの女性の声。
「聞かれて彼はうろたえた」の部分は彼の内面の意識で、外から見える行動ではない。「と」を挟んで前後で全く別のこと、性質の異なることが一文として書かれている。
 これをさっきあげた普通の一文と同じように読めないでしょう。
 このことは実に微妙で、理解するのは簡単ではないかもしれない。だが、この小説の朗読には欠かせない理解であり核心なのです。
「聞かれて彼はうろたえた」はどういう声なのだろう。
 朗読者はこれに答えなくてはならないのです。

 こういうことが言えないだろうか。
「ご予約を変更なさいましたか・・・」は視点の置かれた彼(登場人物の一人でもある)に向けて、登場人物であるカウンターの女性から発せられた声なのだから、読者(聞き手)に向かって発せられたに等しい。
 つまり「セリフ」の掛け合いの声だ。これは演劇の舞台上の芝居として想像すれば納得がいくはずだ。役者が声を発するのだから。
 ところが「聞かれて彼はうろたえた」は読者(聞き手)に向かって発せられたと考え難いだろう。ここが肝心なところ。

 こう考えてはどうだろう。
 彼の内面の意識をいうのだから、視点を置いた彼の中に声がとどまる。「・・・と聞いて彼はこの場を去った」というような外から見えるようなことを言う場合とは違うだろう。この場合なら報告として聞き手(読者)に届ける声がいるだろうけれど。
 ややこしい話だが、この作品はこのような彼の”内部に声がとどまる”ように読むべきところが多いのだ。

 冒頭の空港カウンターの場面は二言三言のやり取りのあと、「彼」の内側、頭に浮かんだこと、意識が綴られるが、これをどう音声にするかが朗読では大問題となる。本文を見てみよう。

 ご予約という言葉は耳障りだと思いながらカウンター越しに航空券を見ると、なるほどそうなっている。
 数週間前に予約を入れた時に、早く帰るつもりで早い便にしたような気もする。その後、自体が変わって、その日の午後に予定がいくつも入った。忙しくて予約のことは忘れていた。三日前、出発に際して往復の航空券を受け取った時も確認をしなかった。いつものとおりの三時半の便だと錯覚していた

 内容からいえば、手違いがなぜ起こったかの説明をしているのだが、これを作者の報告として書かず、語り手による事情の「説明」としないのだ。
 そうではなくて、そのとき「彼」の頭に浮かんだこと(「意識」)がつづられる。これらの言葉をどう音声にするのかが課題として朗読者に突きつけられることになります。

 ご予約という言葉は耳障りだと思いながら(いま頭に浮かんだこと)
 見ると、なるほどそうなっている「いま頭に浮かんだこと)
 早く帰るつもりで早い便にしたような気もする(数週間前のことの記憶)
 予定がいくつも入った(その日の午後の記憶)
 予約のことは忘れていた(いまに至るまで忘却)
 確認をしなかった(三日前のことの記憶)
 錯覚していた(いまに至るまで錯覚)

 「内面描写」という言葉があるが、外から誰かが描写しているのではない。自分が内側を覗いているというのか、自分の内側にある「意識」に焦点を当てているのだ。ともあれここにならべた語句を、( )のなかは読まずに、声に出して口にしてみよう。
 何べんも口にしていると、(自分の内側を覗いている)がなんだか少しわかったような気がしてこないだろうか・・・。

 さて、この後の一行はどうとらえたらよいのか、判断に迷うところだ。

今は六時半だ。三時半の便は彼を乗せないままとっくに出てしまった

 語り手による事態の説明と受けとるのが自然だろうと思われる。今は六時半であり、彼が予約したままにしていた三時半の便は彼を乗せないままとっくに出てしまったのである、ああ何たることよ、というわけだ。
 しかしながら、これを「彼」の頭に浮かんだ「意識」として読めないこともないのだ。さっきいくつかの語句を読んだようにしてこれを読んでみよう。

 今は六時半だ。
 三時半の便は彼を乗せないままとっくに出てしまった

 じつは「彼を乗せないまま」がネックになっている。彼の頭に浮かんだ意識なら「彼」というのはおかしい、「自分」というならわかるけれど、というわけだ。
 けれども、彼という言葉は聞き手にほとんど意識されないくらいに読めないこともないのだ。この作品は語り手を消去する、できるだけ目立たぬようにする書き方だということを考えれば、ここに使われた「彼」も目立たぬように読みたいとも思うのだ。
 「彼を乗せないまま」といっているが、「彼」の内面に入って(自分の如くみなして)「彼を」という言葉を口にするのだ。

 前回にも書いたことだが「孤独のグルメ」なるTVのシリーズ番組。そこで彼が美味しそうに昼飯を食べながらいろいろ喋る、ものを言う。もちろん一人で食事しているのだから誰に話しかけているのでもない。
 その「セリフ」がこの番組の肝なのだが、視聴者に向かって、いま食べている料理の味なり美味さなりを説明するのではなく、自分に向かって頭に浮かんできた思いをぶつける。だから料理番組ではなく一つのドラマになっているわけで、ぜんぶ場面なのだ。それをカメラは写し、マイクは声をひろう(いや実際はあとからナレーションとして吹き込む)。

 モノローグの対義語はダイアローグ。小説や芝居での登場人物同士の「セリフ」のやりとりに当たる。このあとこの作品「都市生活」の中盤から後半は、ダイアローグが中心で場面が進行していく。
 ここでは「セリフ」をどう朗読で表現するかが問題となるが、それはまた別の「分析」の課題というべきだろう。ともあれ、「都市生活」という作品はモノローグとダイアローグで成り立つ小説なのです(多くの小説がそうだと言っていいでしょう)。

 そして、作品の問題意識はどういうことかというと、「言葉が通じるということ」「言葉が働くということ」があります。「人と人とのコミュニケーションとは」という問題をテーマとしている。。
 さらに言えば人間が食事をするということにも及んでいる。そこには料理された食べ物と人間との間のコミュニケーションが発生している、と言えないこともないのです。
 こうしたことは作品の「鑑賞」にかかわることであって、どのように書かれているかの「分析」の話ではありません。

 もちろんこの作品を読んでもらった方が、この小論を読むのに助けになることは間違いないのですが、読まずとも論旨をたどれるように書いたつもりです。ご自分の朗読に生かしていただければありがたい。
 とても面白い作品ですよと言い添えておきましょう。


(この原稿は2008年に朗読教室でテキストに取りあげ、みなさんと一緒に読み、さまざま考え、書き始めたもので、一応の形になっていたのを、今回あらたに「論考集」に収めるべく、書き改めたものです)

2022・10・2 長谷川勝彦