【 論 考 集 】


2022・9・24 長谷川勝彦

■ 口に出して相手に届ける言葉、心のうちに抱くだけの言葉 ■

 長いことNHK文化センターの朗読教室の講師をし(20年にはなるだろう)、朗読について何事かをご指導するという立場に身をおいてみると、小中学校時代に習った算数だの英語だのの教科が、いかに系統だって教えてもらったものだったのかと(本人はそんな自覚がまったくなくとも)この歳になって思う。
 とにかく一歩づつ階段を登るようにして、多くのことが理解できるようになって行った。かなりの年月をかけてではあるが。(英語などは、それでもちっとも喋れないではないかという反省が今盛んに言われているのだけれど)
 それに比べると、この朗読というもの、教科と言われることはないのは、学校教育の範囲内でないということかもしれない。言いたいことはそのことではなく、朗読の場合、算数や英語のように、一歩一歩と確実に進歩していくという道筋が明らかでないということなのだ。こうたどっていくと道がひらけて、上達が実感できますよという風にならないのですよ。実にもどかしい。
 
 算数や英語という教科を例にあげてきたのだが、国語という教科をあげなかった。考えてみれば、国語の勉強は、朗読の勉強というものがあるとして、そのごく近くにあるようだ。どちらも課題は日本語を読むということであるのだから。ともに言語をめぐって考えることにかかわることに違いない。とすれば一生取り組んでもいい、ということが言えそうだ。
 ともあれ、習得するには効率的にたどり着けるコースなどはなく、とりあげた文章をめぐって何が課題かその都度見つけ出していくしかない。したがって、こう考えると霧の中を歩いているような状態から抜け出せるのではないか、明るい見通しがみえるのではないか、そんなことを思いつくままに、とりあげて行きたいと思っているのです。

  

 口に出して相手に届ける言葉、心のうちに抱くだけの言葉

 人はいつも、自分以外の人に(猫だの犬だのの場合もあるけれど)言葉を声に出して、自分の気持ちを伝えたり(「愛してる」)、何かしてもらったり(「お茶入れてくれる?」)、教えたり諭したり(「そりゃよしたほうがいい」)、情報を届けたり(「雨が降ってきた」)、色々します。ごく普通に行っていることです。これが言葉を使うということです。

 ところが自分以外の人に伝えるのでなく、自分自身に向けて言葉を発することがあります。何か失敗したりして「バカだなあ」と思わず独り言を言う。物事が思うようにうまく運んで「なかなかいい展開ではないか」とひとりごちる(「独り言をいう」という意味の、ちょっと気取った古めかしい表現ですね)。

 西洋の演劇の言葉から来た「モノローグ」という言い方があります。
 「独白」などとも言われますが、早い話が「独り言」で、これは誰にも経験があるでしょう。この「独り言」よく考えると、口に出していう場合と、口には出さずに心の中だけでいう場合があることに気づきます。

 このことを「文芸」はおおいに活用して来ました。朗読にとってこのことの認識はとても大事です。
 シュークスピア劇など観たことがありませんが、ハムレットのセリフ

    To be, or not to be: that is the question:

なら知っている。翻訳も様々ある。

    「生か、死か、それが疑問だ、」

    「生きるか、死ぬか、それが問題だ。」

    「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ。」

    「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」

 この文句は役者が舞台から観客に聞こえるように声に出して言いますが、実際は「モノローグ」であること、心の中の言葉であることを観衆は心得ているのです。そういう約束で声に出しているのだと、ものの本にあります。

 そのように観客に聞こえるように役者はセリフをいうのです。その時、友達との日常の会話のような調子で言葉にするのではなく、自分の内心を告白する調子でこの言葉を口にするのです。
 演劇であれば役者によってその言葉が口に出されるので、その感じの違いは聞いているとわかるのでしょうが、言葉が文字で印刷されているだけの小説という文芸ではこのことが問題になってくるのです。
 
 
 小説(小説に限らず演劇でも落語でも)は登場人物の心の内を言葉で映し出すということをします。セリフとして登場人物同士の会話でもって(当然のことですけれど)心の内を表に出すこともできます。「君のことなんか大嫌いだ」という具合にです。
 これに対して、言葉にして表に出さずに心の内を映し出すということを小説はよくやります。

-ガキめら!早く失せやがれ。
-やんだら、入るぞ。

 これらは藤沢周平の作品「驟り雨」にある、盗人がこれから仕事をしようと神社の軒下にひそんで雨が止むのを待っている、そこに邪魔が入った時の、盗人が心に浮かべた言葉です。大きな声は出せない状況です。
 とにかく、誰かに言葉を伝えようとしているのではない。独り言である。自分に向けて言っている。「 」の中に書くことになっている登場人物同士の会話とは違うのである。
(藤沢周平という作家はこうした言葉にはかならず、記号-をつけて表した)

 こうした声を黙読しているならばともかく、朗読するには声にしなければ聞き手に言葉が届かない。どんな風にことばにすればいいのか、ここに朗読の大きな問題があると思われます。難しさがあると言ってもいいかもしれない。

 これは登場人物が心のうちで浮かべた言葉で、「物語の語り手」がその登場人物がいま心のうちでこう思っていると外部から語るのではないのだ。作者がじかに登場人物の思っていることを読者に示していると言えるだろう。
 したがって例えば「やんだら、入るぞ」という言葉も、「はいるぞ」ではなく「へえるぞ」と発音したい。「うせやがれ」という言葉を使う憙吉という名の盗人の心にうかべた言葉だから。

 さて、ここから話はすこしややこしくなります。

 藤沢周平のように、物語を語る語り手という存在がいて、その語り手が登場人物の行動なり話した言葉を読者に伝えることがあり、時折は、登場人物のこころに浮かんだ言葉をじかに読者に伝えたりする、という物語の語り方があります。

 またもっと最近の作品である、池澤夏樹の「都市生活」のように、「彼」という登場人物の心に入り込んで、物語の語り手という存在が、話を進めていくという小説の書き方があります。

「「ご予約を変更なさいましたか・・・」と聞かれて彼はうろたえた。」


「ご予約を変更なさいましたか・・・」は空港の受付の女性という登場人物の発言ですが「・・・と聞かれて彼はうろたえた」という言葉はどうでしょう。
 予約の手違いから空港近くで一泊しなければならなくなった「彼」のおよそ3時間半の間の出来事という「都市生活」と題されたこの話を、時間の経過に従って運んでいく、語り手という存在のことばであると考えられます。

 ここで考えなくてはならないのは、語り手の言葉といっても、こう発言する語り手は「彼」を客観的に外から眺める立場にいるのではない、ということです。登場人物である「彼」の「内面に入り込んで発言している」(柳父章の「比較日本語論」参照)語り手なのです。

 この「都市生活」という短編作品の登場人物である「彼」はほとんど作者である池澤夏樹その人であるかのような印象がある。そして、物語の語り手という存在は作者本人に限りなく近く感じられることが多いということを考え合わせると、本人に近い登場人物を「彼」という客観視すべき三人称で呼ぶけれども、自分の内面に入り込んでいくのだから、ごく自然なことに違いない。

 登場人物の内面を描くというのは小説の大きな働きの一つに違いない。第三者として外から描くということもありうるだろうが、人物の内面に入り込むということができるなら、その方がナチュラルで、リアルなわけで、池澤夏樹「都市生活」もそうした書き方を試みた作品ということができるのだろう。

「ご予約という言葉は耳障りだと思いながらカウンター越しに航空券を見ると、なるほどそうなっている。
 数週間前に予約を入れた時に、早く帰るつもりで早い便にしたような気もする。その後、事態が変わって、その日の午後に予定がいくつも入った。忙しくて予約のことは忘れていた。三日前、出発に際して往復の航空券を受け取った時も確認をしなかった。いつものとおりの三時半の便だと錯覚していた」

 ここに書かれていることは、空港の受付カウンターで、あなたの予約は3時半の便のだといわれて、この時「彼」の頭に浮かんだ「想念」とでもいえばよいのか、一つのまとまりをなす「想い」である。
 一つの「まとまりを持つ想念」として口にすることがまず第一。
 第二は、もちろん彼がこれらの言葉を「しゃべった」のではないことは明らか。朗読は口にしてない言葉を音にしなければならない。このことを十分に認識すること。ハムレットのあのセリフのように、聴衆に聞こえる声で、声に出さなかった言葉を伝えるのだ。
 
 そんなことはできませんという人は「孤独のグルメ」というテレビ番組を御覧なさい。松重豊という役者がそれを現実のものにしている。
 井之頭五郎という登場人物は毎回、うまそうに昼飯を食べながら、テレビを見ている我々に向かって「これはうまい」とか「こうなればこうして食べるしかないだろう」とか何事かを伝えるのだが、食べながらなのだから決して口に出して喋るのではない。いわば彼は自分に向かって自分の心の中でしゃべっているのだろう。
 テレビの視聴者は彼が食べている様子を目で見て、彼がその時心に浮かべていることを耳で聞いて、そのふたつを同時に知覚し、そのシーンを理解するのです。
 他人ができることは自分でもできるだろう、という楽観は、人を幸せにしてくれるものだろう。


 以上です。納得がいきましたでしょうか。納得だけではいけません。実際に朗読に実現できなければ。

2022・9・24 長谷川勝彦