【 論 考 集 】


2021・4・9(記)長谷川勝彦

■ 朗読における「構え」ということ ~宮部みゆき『神無月』を読んで~ ■

 朗読教室で、テキストにしてきた宮部みゆき「神無月」(新潮文庫「幻色江戸ごよみ」所収)の総仕上げとして、作品冒頭のかなり長い(行数にして21行)、語り手一人のことばが続くところを一人で読んでもらうということをやってみた。普段は、もっと短い(5、6行の)一つ二つの「小節」読んでもらうだけなのだが。

 念のため押さえておくが、いくつかの「語」(単語)から一つの「文」ができており、いくつかの文で一つの「小節」というまとまりとなり、いくつかの小節があって一つの「段落」となる。そしていくつかの段落が連なって一つの文章になるのである。とまあ大雑把に述べておく。
 (実は「段落」の概念がはっきりと固定していないし、「小節」は私がそう名づけているだけなのだが)。

 文をどう読むか、さらに小節(いくつかの文からなる)をどう読むか、そのうえで段落(多くの文からなる)をどう読むか、という具合にだんだん長いまとまりを読んでいく方向で朗読の上達をとらえる、一段階上のもっと大きなかたまり(段落と呼んでおく)をどう読めばいいのかにチャレンジしてもらったのである。
 気づいたことがいくつか、わたしにとって発見と言ってもいいこともあったので、ここに書き留めてみたい。

  

 朗読における「構え」ということ~宮部みゆき『神無月』を読んで~

 いざ、みなさんにかなり長い一つの部分(いくつかの「小節」からなる)を読んでもらうと、聞いていてどうも物足りない。
 話を運んでいる、という感じがしないのだ。
 一文、一文を読むだけ、それを繰り返しているだけ、極端に言えばそう聞こえる。
 どうすれば良いのだろうか。何が足りないのだろうか。

 この作品の語り手の語り出す冒頭部分で表現されているのは、江戸の昔の居酒屋、夜も更けて岡っ引きが店の親父を相手に酒を飲んでいる、その雰囲気、様子である。岡っ引きが壁に貼られた暦に目をとめるまでを描き出したところまで読んだ。
 ここでは何らかの事態が進展していくわけではない。だから山があって谷があるというものではなく、起承転結などの話の展開がここにはない。
 話を運ぶというけれど、運ぶということがここでできるのだろうかと思うかもしれない。

 みなさんが読むのを聞いて、私の感じた不満はこういうことではないだろうか。
 岡っ引きも店の親父もまだ喋らないので、どちらかというと静かな場面の描写なのだが、この話を読む者(朗読なら聞く者)は、初めの一文から、読み進むにつれて、その舞台となっている居酒屋、二人の人物についてのいくつかの情報に触れていく。そうした情報が積み重ねられていくにつれてその雰囲気、様子が濃厚になっていくのだが、そのことが聞いていて感じられないということではないか。

 では雰囲気、様子が濃厚になっていくというのはどういうことなのだろうか。宮部みゆきの書いた文章に実際にぶつかり、細かく見ていくことにしよう。まず、冒頭の4つの小節。

 夜も更けて、ほの暗い居酒屋の片隅に、岡っ引きがひとり、飴色の醬油樽に腰を据え、店の親父を相手に酒を飲んでいる。(1)
 親父はとうに六十をすぎた小柄な老人で、頭の上に乗っている髷は銀糸色、背中もずいぶんと丸くなっている。岡っ引きのほうは三十後半、ようやく親分と呼ばれることが板についてきたという風情だ。(2)
 客が十人も入れば満杯という店だが、この時刻になると、さすがにもう誰もいない。夜明け前には縄のれんの代わりに一膳飯屋の看板をあげるという店だから、いつもならとっくに店じまいのはずなのだが、二月に一度、岡っ引きが店の隅のこの樽に腰を落ち着けに来る夜は、親父もとくに、彼ひとりの長い酒に付き合うことになっている。それがもう何年も続いてきた。(3)
 岡っ引きは鮫の皮の煮こごりだけを肴に、熱い燗酒を手酌でちびちびとやっていた。染付けの銚子がひとつ空くと、親父がすいと手を伸ばし、新しい熱いのを代わりに置く。それが三本目になったら止めてくれというのが、岡っ引きのいつもの注文だった。(4)

(後の説明のため、行替で生じた空白のところに番号をつけた)

 この居酒屋の中の雰囲気が、読み進むにつれて濃厚に立ち上ってくるではないか。まるでここに漂う匂いまで感じられるように。宮部みゆきの筆の力といえばそれまでだが、これを朗読するものはまずそのことを感じ取らねばならないだろう。

 こう書き写しながら、朗読する上で言いたいことが二つあるなと思った。
 一つは、この四つの小節をあわせて一つの「段落」とみなしたいということ。つまり、(1)から(4)までをひっくるめて、まとまった一つのことを述べている部分ととらえたい。

 もうひとつは、そこで述べられていることは何かといえば、居酒屋の親父と店にふた月に一度やってくる岡っ引き、この二人の(関係性についての大まかな説明)といえるだろう。

 つまり、ひとつの概略的な説明として要約できる、まとまりであるということだ。そう認識できるかどうか。

 それでは、この「段落」をひとつのまとまりある情報として声に出して読むにあたって、具体的にはどうしたらよいのか。
 ひとつの文、ひとつの小節を相互に関連していないように、バラバラに読むのではなく、一つの連なりとして、一つのまとまりを持つ部分として聞こえるように読むには、どうすればよいのか。
 その秘訣が今回わかった気がしたのだ。

 こう考えたらどうだろう。
 (1)のところには、
 (この二人がどういう人間かというと・・・)
 という文句があるかのように、実際には書かれていない文句を声に出さず、頭の中だけで聞いて、次の言葉「親父は・・・」と発音する。

 (2)のところはどうか。ここにはこんな文句を想定したらどうだろう。(この店での二人の間柄はどういうものかというと・・・)
 そして次の言葉を「客が・・・」と発音するつもりではいけない。ここが大事なところだが「客が十人も入れば満杯という店だが、」ということを話すつもりでこの小節を話し始めるのだ。「客」のことをいうのではなくて「店」のことをいうのだから。(客が十人も入れば満杯という店)と一息で発音するのである。
 「この店で」生じた二人の関係なのだから。この店で二人の間柄が何年も続いてきた、そのことを話題にするのだから。

 では(3)のところはどうか。次にする話は大まかにふたりの間柄をのべるだけではなく、もっと具体的なことを伝える。
 これもいつものことではあるのだが、ということを言いたいのだから、こんな言葉を想定してみるのはどうか。
 (いつもこのふたりは店の中でどんな様子でいるかというと・・・)
 岡っ引きはいつもこの店では、手酌でちびちびやり、三本目の銚子が空くと、いつも親父が止めてくれるのである。それが毎度、毎度のいつものことなのだ。
 忘れてならないのは、そういうことをこれから述べるのだぞと、予め頭の中にイメージして、話し始める。「構え」という言葉はそこから出てきた。
 「構え」というのは、現実に行動に出る直前に、身体や頭の中にあらかじめ造られるものを意味する。走り出す構え、剣を振り下ろす構え、交渉にのぞむ構え、等々色々な構えがあるだろう。

 あらためて文章の場合に戻ると、言い換えれば、こういうことではないのか。行替えをして、空白の部分を空けるというのは、そこに間が必要なことを示すだけではない。そのうえで、読む者の気持ちを切り替えることが求められるのだ。
 次の小節で伝えることが頭の中ですでに用意されている。次の小節の始めの言葉あるいは語句を言い出すにあたって、その中身にふさわしい言い方となるように見構える。心の準備をするのだ。
 そのことを「構え」という表現で説明しようとしたのである。

 たとえば、「そこの窓を開けて」と人に頼む時、相手により、状況により、語調が変わる。強圧的態度でいうのと、お願いする調子でいうのでは全く違うだろう。伝える相手に対する態度が違うわけだが、その言葉を口にする際の「構え」が違うのだとも言えるだろう。
 とはいえ朗読の場合、相手によって「構え」を変えるということではない。(とはいえ、聞き手が子供の場合と大人の場合とでは「構え」は変わってくるはず)
 つぎの話の中身に応じて、朗読していく、つまり言葉を発する直前に、中身に応じた「構え」を自分の中に作る、心の中に準備するということを言っているのだ。

 「何の気なしに読み始めてはいけない」
 「これから読むという構えを作ってから声を出す」

 このことを随分以前からわたしは朗読に必要なことと力説してきたのだが、こういうことなんだと、ここにはじめてきちんと説明ができた気がしている。どうか「構え」とはどういうことか、理解し、朗読の実践に役立てて欲しい。ここまで解説してきたように、口にはしないことばを補って実際に朗読してみて納得してほしい。

 作品の書き出し、出だしの部分を読む時に、いつもこのことを思い出すとよいだろう。その時にどんな「構え」がいるか、誰も考えるはずだから。(物語の中に、あるいは仮構の世界に、入り込むとも言えるだろう。読み手が、今いる世界から離れ、別の時空に入るのだ。このことに無頓着な人が多い)
 とはいえ実際は「文字を読む」姿勢でいるので、「語る構え」ができずに、言葉を音声に変えるだけで終わることが多いのだが。
 日常茶飯の会話ではなく、創られたお話をこれからするのだから、何の気なしにということはありえないではないか(「神無月」なら江戸の世の居酒屋に入るのだから)。心のうちに「構え」が必要と、ぜひ納得していただきたいものである。

 さて、次に移ろう。
 この作品もここまでくると、概略の説明が終わって、文字通り一段落がついたことになる。だからつぎの段階に移る(4)のところはすんなり次につながっていけばいいというものではないだろう。したがってここにはこんな文句を想定してはどうだろう。
 (さて、今この居酒屋の中の二人の様子はどうであるかというと・・・)
 つまりこれまでとは違った、次の段落が始まるととらえるのだ。間も少し長くなるだろう。

 じつはもっと重要なことがある。
 ここから時間が流れ始めるのである。このことの理解も欠かせない。
 ここまでの(説明)の部分では、時間の推移にかかわりのない状態、いつものことが語られてきた。ここからそうではなくなるのである。
 今という時間は一瞬一瞬、過ぎ去った過去に組み込まれて行く。今はすぐさっきのことになっていく。これが時間の流れというものだが、その今の時点を、時間の流れにそって克明に伝えて行く(実況)がここからはじまる。
 (「説明」と「実況」とは、わたしが朗読を考えるに重要な概念、考え方であるが、これについて述べているものがこれまでに多々ある。それを参照していただきたい。ここでも具体例を挙げて述べているわけだ)

 つまりここで〈概略の説明〉から、今度は今現在の様子を〈時々刻々と実況していくスタイル〉に変わる。述べようとする内容の性格そして文章の性格が変化するのだ。話が展開するとはこういうことでもある。
 朗読するものは文章に臨む「構え」をここで変えねばならない。「説明」の構えから「実況」の構えにである。

 では、どんな内容が続いて行くのか、見ていくことにする。

 ふたりはあまり話をしなかった。岡っ引きは黙々と飲み、親父も静かに洗い物や明日の仕込みにかかっている。時おり包丁の鳴る音がする。黄色味がかった行灯の明かりの下で、湯気がゆらゆら揺れている。(5)
 親父の立つ帳場のうしろの壁に、三枚の品書きと並べて、暦が一枚貼ってある。岡っ引きはそれを見上げた。毎日書き換えられる品書きの紙は白いが、正月元旦から今日の日まで、煮炊きの煙に燻されてきた暦は、薄茶色に染まっている。(6)

 

 (5)(6)と示した空白の部分は、(4)までと違って、この様子をまとめたような言葉を想定することはできない。しなくてよいのだ。((5)と(6)とある空白部分に、頭の中で思い浮かべるべき言葉を想定しないのだ)
 細部を写しだしていく語り方に変わっている。
 ここに示されている描写は、これを写している者(これを実況の語り手と言おう)の視線の動きが示される。視線だから時間的に前後がある。時がそこに流れている。

 あまり話をしないふたりに注がれていた語り手の視線が、黙々と飲む岡っ引きに移り、すぐ親父に移って行く。そこにはわずかの時間ではあるが、時間が流れているではないか。(6)のかたまりでは、今度は暦に視線は移って行く。実況の「構え」は変わらないのである。
 それを見上げる岡っ引きに視線は移り、今度は岡っ引きの視線と重なって、その暦が薄茶色に染まっているのを見る。ここでも「構え」は変わらず、時が移っていくだけ。
 ではなぜ(5)のところで行を替えたのだろうか。そこに空白を置いたのはなぜだろう。

 こう考えた。
 その居酒屋の中の空気、雰囲気といったものから、一つの”もの”に焦点が絞られて行く、そのことを表すためではないだろうか。話の転換を示すための重要な小道具といえるだろう暦。暦とは時間の経緯を象徴する。そして、この物語で大きな意味を持つ一年に一度巡りくる「神無月」という言葉と響き合っている。その物語がここから始まるのである。
 そんな意味合いをここから読み取れるのではないだろうか。「余白を読む」ということがよく言われる。このことを朗読の実際に生かして行くには実践的にはどうしたらよいのかについて、一つの例だが、述べてきたということになろうか。

 このあとこう続いていく。

 暦は俺たちと同じだ。ちゃんと年齢(とし)をくうー岡っ引きはふとそんなことを考えた。
 「もう神無月になったな」
 銚子を傾けながら、岡っ引きはぼそりと言い出した。・・・

 

 「もう神無月になったな」のひとことは、岡っ引きがぼそりという「セリフ」だが、「神無月」というドラマの始まりを告げる。そんなつもりで声にしたいものだ。「ぼそり」という言葉に引きずられて印象が弱くなってはいけない。朗読者はものがたりの「語り手」を勤めているのだから。話(ドラマ)を運んでいく仕事をしているのである。


 以上、今回は、教室で読むにしてはいささか長目、実際はほんの僅かな分量の文章を対象にして「構え」ということを語ってきた。
 まさにこれからストーリーが始まるところまを対象に考えたので、ここではストーリー(ドラマ)について語ることはしていない。まずここまでの地の文の「語り」ををきちんと読めるかに主眼を置いたのである。

 この「神無月」という作品は、ストーリーテラーとしての作家・宮部みゆきの魅力が最大限に発揮されていると傑作と言えるだろう。
 聞く人を惹きつけるドラマの語りとはどのようにすれば可能なのだろうか。この課題に、朗読するものは挑戦し続けなければならない。その遠い目標に向かって行くには、原作の魅力をどれだけ文章から具体的に感じ取れるのかが、まず第一歩であるだろう。「読む力」そのパワーアップに勤めることしかないのである。

2021・4・9(記)長谷川勝彦
(2023・4・21 公開)