【 論 考 集 】


2020・3・28(記) 長谷川勝彦

■ 或る年の春の偶感~人間の意識(知覚)というものについて■

 我が家の桜が・・・とか言い出すと大邸宅に住んでいるかのごとき印象を与えるかもしれないが、実情をいうと幅が1メートルもない建物と家の囲いの間に鉛筆より少し太いかというほどの苗木を植えたものが、思いのほか早く成長して、いまでは堂々と満開の花を見せてくれているというわけです。
 
 このところ、二階の自分の、机のある部屋からつい横を向いて外を眺めるとその姿が見えるのだが、つらつらものを考えることになる。
 桜の木をながめてその美しさにうたれるというのは、そのおかれた環境、周りの状況が左右するものだ。だから桜の名所などいうものが生まれた。
 川沿いが多いのも頷ける。桜の並木。背景に山、白雪の残ったのが遠く望めるなどもいい。黒い瓦をいただいた大きなお寺、桧皮葺の屋根の神社に樹木が配されている中に、巨木ともいえそうな一本の桜樹が満開に花を咲かせているのも見事だ。
 
 我が家ではとてもそんなものは望めない。手前には物干し台、ベランダの手すり、エアコンの室外機、背景は道を隔てて5階建てのマンション、手前に見るからに汚い機器の取り付いた電信柱。
 
 そんなところで我が眼はどんな操作をしているかというと汚い背景を眼中に入れない。咲いているしだれ桜だけをみている。花びらの集合体、花冠に目を留め、花びらの裏がソメイヨシノとちがって薄紅色をし、蕾はより紅が濃いのを思ったりする。
 なによりその操作は、細かいところを見るというより、ぱっとはじめに全体を一瞥した時にうける印象に核心があるようだ。
 
 私のケータイで写真を撮って見るとそのことがよくわかる。写真は夾雑物を遠慮なく捉える。ありのままなのである。桜の美しさなどというものにフォーカスしてはくれない。だから誰でも空を背景にして花をアップして写すことをする。
 
 人間の眼というのはカメラと違って、いらないものを見ないようにして見ることをする。勿論全く消すことはできないのであるが。意識からできるだけ除外しようとすることができる。いやできるというより自然にそうなると言ったほうがいいのではないか。
 そうさせるものは何か。それが「美」というものだといえるかもしれない。小林秀雄は「美というものはない。美しい花があるだけだ」というようなことを言った。
 
 ここで私のいう美というものは、花が放っている生気あるいは精気なのではないか。その他に見えている夾雑物、邪魔なものは見えなくする力を持っているのでは。
 私の身近な街に見た今年の桜ソメイヨシノが「老人になった美人のごとくで、精気に満ちたはつらつとした華やぎはとても感じられない」と先日書いたが、その精気が感じられないと言ったのだ。我が孫娘の誕生の記念樹であるしだれ桜には精気が満ち満ちており、それを私は、邪魔ものを眼中に入れずに眺めているというわけだ。
 ずいぶん主観的なだけの思いを述べたようだが、それだけには終わらないものがあると思うのだ。
 
 大野晋の書いた辞書「岩波 古語辞典」をみると、「面白し」の項にこうある。

「面白し」ーオモは面、正面、面前の意。シロシは白し。明るい風景とか明るいものを見て、眼の前がぱっと開ける意。また、気分の晴れ晴れとする意。
①景色や風物が明るくて心も晴れ晴れとするようだ。
②気持ちが解放されて快よく楽しい。
③心惹かれるさまだ。感興がわくさまだ。

 これをみると「我が家の桜はいと面白し」といえばよいだけの話にもなる。だが「景色や風物が明るくて心も晴れ晴れとするよう」になると、他の邪魔なものが眼に入らなくなるという、人間の生理、意識の不思議さ(カメラなどの機械との違い)は説明されていないように思う。
 
 人間の感覚というものは視覚にしろ聴覚にしろ、自分の求めているものに集中するものだ。余計なものは見えない、聞こえないようにする性質があるように思う。注意という言葉がそれを示している。意を一つところにあつめて注ぐのだろう。意識的にそうすることもあるし、無意識にしていることもある。
 
 こんなことに注目(眼を一点にあつめる)するのは、今度は聴覚の話になるのだが、自分の朗読を録音で聴いたりする時の意識の操作が実に興味深いからだ。
 誰でも自分の録音を聴いて「ああいいなあ」と感心する人はあるまい。嫌なところがやたらと耳につくものだ。わたしはどうするか。嫌なところはなるべく聞かないように意識を操作する。いいところを聞くようにする。そこに意識を集中する。悪いところは意識からつとめて除外するのだ。
 
 するとどういうことをしていることになるかというと、聴きながら即席に自分の朗読を修正、補正して聴いていることになる。これはひと様にも勧めたい。そのように聴くように努めるのである。何度も繰り返してこの作業をすれば、朗読の上達に資することになる。

(ピアニストがミスタッチをしてもしなかったこととして演奏を続ける、これを誰も咎める人はいまい。演奏が終わって聞き直してみたときに、そこを何度も聞いて悔やんでも仕方がない。修正、補正をして、あるべき演奏を聴いているかのようにして聴いているに違いない)
 
 頭の中で修正、補正する能力がもちろん必要だ。朗読を学ぶとは、この能力の向上を図るということかもしれない。聴く力を養うと言ってもいいだろう。それにはいいものを聞いて頭の中で理想像を高めることだ。どうもそうした努力が必要なのかもしれないと思う。

 余りこの話はひとに納得してもらった記憶がないのだが、自分では極めて重要なことを言っていると思っている。今回わが家のしだれ桜をみながら、聴覚ではなく視覚で同じような意識の操作?が行われていることに気づいて文章にして見た。
 みなさんも自分の録音を聴いて「気持ちが解放されて快よく楽しい」そして「心惹かれるさまだ。感興がわくさまだ」と思えるように何度も録音を聴いてその操作を繰り返しましょう。そうすれば「我が朗読する文章いと面白し」と自分で思えるようになるでしょう。

2020・3・28(記) 長谷川勝彦


 いつもの文章とはだいぶ趣が変わったものとなりましたが、時季に合わせて論考に加えることにしました。(2023・4・16 公開)