【 論 考 集 】


2023・6・2 長谷川勝彦

■ 柳父章の日本語論に学んで、朗読に及ぶ 2 ■

 前稿から、柳父章の著作を読んで、朗読の実践とのかかわりを論じてきたところである。「比較日本語論」からだったが、今回は「日本語をどう書くか」という著作から考える。これは「書きことば」と「話しことば」について論じている。
 この問題は朗読する者にとって、決して無視することのできない大問題であろう。朗読とは、とりあえずは「書かれたものを声にする」ということ。単純明快、そこに難しいことは何もないように思えるだろうが、ところがである。
 声にした途端に、ごく当たり前のことばが、それを聞くものには「言葉として聞こえない」という事態が起きる。違和感が生じるのだ。
 文字として目の前にあるとき、読もうとする人間にとって、書かれた(印字された)文字は無音のままそこにある。だが、音声として頭の中で音のことばとして聞こえているのも事実だ。

  この頭の中の音声を、小森陽一は「聴覚的な像としての音声」と表現している。じつは、どうやらこの音声に問題がありそうなのだ。にもかかわらず、言語について論じる研究者はこのことに無関心なのではないか。しかしながら、柳父章の論じるところは、ややこのことに近づいているように思うのだ。
 私が何を考えているか、以下お読みいただいて、共に考えていただきたい。理解できるところと、理解の及ばないところの、判別ができるといいのだけれど。

  

~柳父章の日本語論に学んで、朗読に及ぶ 2~

 前稿に続いて、今度は柳父の「日本語をどう書くか」(PHP研究所)を読んで、朗読との関連で考えておくべきことを記していこう。
 「朗読とは書かれた文章を、話しているように変換することである」
 つまり「書きことば」を「話しことば」に変換するのだ。
 こう言われると何やら納得してしまうではないか。朗読の世界では「話すように読め」と教えられてきたと言っても間違いではないだろう。
 現代日本語文というのは、明治以来の多くの人たちの努力によって作り上げられてきた「言文一致」の文章がほぼ完成しているのだから、というわけだ。

 ところがである。

 柳父章によれば、「日本語の話ことばと書きことばとは、ふつう一般に考えられている以上に、大きく違っている」というのである。
 話すように書けとか、近代以降の日本文は言文一致体である、などという人も、無条件に「言」と「文」とが一致すると考えているわけでもないだろう。心の底で、本質的には「言」と「文」とが一致するはずだとか「言」と「文」の一致をあるべき姿として思い描いているのだろう。けれども柳父は、「言」と「文」とは「決して一致しない」のだと言う。

 それは何故か。彼はこう述べる。

 日本語の「書きことばは、長い歴史を持った話しことばとは、ほとんど全く別の必要から、きわめて人工的に作られた」からである。書きことばの日本語は、伝統的な、言わば正当な日本語である話しことばの日本語とは別の、「もう一つの言語ともいうべき性格」を持っている。

  そしてこう主張する。

 日本語の話しことばと書きことばとは、「本質的に、ひじょうに大事なところで、それぞれ別の必要性と、その対応策とをもっている」と考えたほうがよいのだ。

 さらなる説明が必要だろう。

 書きことばの日本語は、「端的に言えば、翻訳の必要によって作られた」のであり、世界でも稀な「日本独自の翻訳の歴史によって」作られたのだというのだ。
 ここに柳父の主張の独自性と特徴がある。

 柳父は言う。

 西洋の翻訳理論によれば、翻訳とはこう考えられている。
 「一つの言語の話しことばから、もう一つの言語の話しことばへ」メッセージを移転することである。「二言語併用者」の立場によってそれが行われる。(ここで「話しことば」であることに注意されたし)
 「二言語併用者とは、ヨーロッパや多民族国家のアメリカに多いが、きわめて幼い頃から二つの言語を併用して育った人」をいう。
 ところが、日本には二言語併用者はとても少ない。そこで行われる翻訳は、二言語併用者の立場によってではなく行われるのだ。したがって日本で行われた翻訳は日本独自の方法でなされてきたのである。  
 それはどのようになされたか。「あちらの話しことばをこちらの話しことばに移し入れるという方法」ではなかった。
 では、どんな方法でなされたのか。
 「あちらとこちらのふたつの話しことばの間に、言わばもう一つの日本語とも言うべき、翻訳用の書きことばを作り出す」という方法によったのである。それがまさしく「漢文訓読」という方法である。

 柳父はこのように考えたのである。

 「漢文」とはもともと「文字で書かれた外国語」である。
 それを、ひっくり返したりして「訓読」して、とにかく日本語よみにしてしまうのだ。
 一例を挙げよう。左大臣光永氏のブログから引用させていただく。
 「生年不滿百」と題した無名氏の古詩(?)である。

生年不滿百
常懷千歳憂
晝短苦夜長
何不秉燭遊
爲樂當及時
何能待來茲
愚者愛惜費
但爲後世嗤
仙人王子喬
難可與等期

 以下これを「訓読」した(読み下した)もの。

生年(せいねん)は百に満たざるに
常に千歳(せんざい)の憂いを懐(いだ)く
昼は短くして夜の長きに苦しむ
何ぞ燭を秉(と)って遊ばざる
しみを為すは当(まさ)に時に及ぶべし
何ぞ能(よ)く来茲(らいし)を待たん
愚者は費(ひ)を愛惜(あいせき)して
但(た)だ後世の嗤(わら)いと為(な)る
仙人王子喬(せんにんおうしきょう)と
与(とも)に期(き)を等しくすべきこと難し

 現代語訳

人の寿命は百に満たないのに、
君はいつも千年先のことまで心配している。
昼が短くて夜は長いといって苦しむなら、
どうして灯を手にして夜通し遊ばないのか
楽しむのには時というものがある
どうして来年まで待っていられよう
愚者はわずかな無駄を惜しんで節約にはげむが、
ただ後世の笑い者となるだけだ
仙人王子喬と同じくらい長生きすることなんて、できはしないのに

 生年は百に満たず。百歳になるまで生きられることはまずないんだから、好きなようにやれってことです。
 とくに人生後半になって、終わりが見えてくると、あるていど好き勝手にふるまってもいいと思うんですよ。どうせ後死ぬだけなんだから

 という左大臣光永氏の言葉は頷ける。

 それはともかく、

生年(せいねん)は百に満たざるに
常に千歳(せんざい)の憂いを懐(いだ)く
昼は短くして夜の長きに苦しむ
何ぞ燭を秉(と)って遊ばざる
何ぞ能(よ)く来茲(らいし)を待たん
 ・・・・・

 こうした詩句を口にすると、日本語として楽しめるではないか。ただし、日常使っている日本語とは、ちと、いや相当違うぞと感じる。話しことばでは全くない。これは本来の日本語といえるのだろうか。
 「生年不滿百 常懷千歳憂」を「生年(せいねん)は百に満たざるに 常に千歳(せんざい)の憂いを懐(いだ)く」と読む。
 漢字の場合、生年(せいねん)や千歳(せんざい)など音読するだけで意味が通じたのであるが、西洋語を翻訳するにあたっては、そうはいかない。そこで、この漢詩の場合と同じように、語順をひっくり返して(返り点、送り仮名をつけて)読むという方法がとられた。その源は漢文訓読にあったのである。
 それが徳川時代の蘭学者たちの、漢字をオランダ語に一語一語対応させ、ひっくり返して読む方法へつながり、明治の頃に始まった英語文やドイツ語文等々の翻訳でも、同じ方法が引き継がれていった。
 
 柳父はこう述べている。

 「近代以後、私たちが西欧語を受け入れ、翻訳したとき、基本的にこの「漢文訓読」を受け継いだ。
 個々の外国語に「訓」を宛てたり、ことばの順序をひっくり返して「てにをは」をつけて、ほとんど原文の一語一句を拾い上げるようにして「訓読」する。これがふつう言う直訳である。
 こうして、訓読という「もともと話すためではなく、外国語を読む必要上、便宜的に作り出されたある生硬な文体」が、長い日本の歴史を貫いて、日本の翻訳文化の中心的な役割を果たしてきた。
 この訓読文体がやがて和漢混淆文とか漢字仮名交り文といった「書きことばの文体」を作るようになっていく。
 近代以後、今から百年ほど前、私たちが西欧文翻訳の影響を受けつつ、近代日本語文を作り出したとき、その中心は訓読文体の流れを汲む、書きことばの系譜の文体だったのである。

 もう一度、重要なところを読むと、

 西欧文翻訳の影響を受けつつ、近代日本語文を作り出したとき、その中心は訓読文体の流れを汲む、書きことばの系譜の文体だった

 これを受けてわたしはこう思うのだ。
 われわれが朗読する文章は「もともと話すためではなく、外国語を読む必要上、便宜的に作り出されたある生硬な文体」なのだというこの指摘を、もっと切実に受け止め、その適切な朗読とはどのようなものであるべきか模索を続けるべきだろう。
 そうであるならば、以下のような気楽なことはとても言えまい。
 今では「言文一致」の文章がほぼ完成しているのだから、「書きことば」を「話しことば」に変換するのは難しくないはず。
 朗読とは「話すように読むことだ」。
 といったようなことを。

 とはいえ確認しておくことがある。
 言葉とは、本来、人が話す音である。
 書いたものを文字とはいうが、音声にしなければ言葉にはならない。
 これは真理だ
 われわれ朗読者が立ち向かうのは「書きことばの系譜の文体」であり、「もともと話すためではなく、便宜的に作り出された」ものなのだということ。このことに、より強く意識を向けねばなるまい。

 とするなら、われわれは書いたものをどう音声にするか、「読むとはなにをすることか」と探求してきたのだが、「書くとは何をすることであるのか」とも問うて行かねばならない。この論考集はそのことをつづけてもいるのだ。あるべき朗読を模索し探求する道程は、はるか向こうまでつづくとはいえ、ここに述べた、われわれの持つべき自覚は、先を見通す一筋の光明でもあるだろう。
 

2023・6・2 長谷川勝彦