【 論 考 集 】


2022・11・3 長谷川勝彦

■ 三浦哲郎「泉」を読んで、書かれ方と声にする仕方を考える ■

 三浦哲郎の短編「泉」はこうした二文で始まる。

 「山へ出かけようとして、ふと、リツは立ち止まった。
  腹の子が、あくびをしたような気がしたからである。」

 『野』と題された短編集(講談社文芸文庫)には、「著者から読者へ 同郷者への共感、望郷の念」と題された文章があって、そこで三浦哲郎はこう述べている。
 「この『野』が、自分の著作のなかで、心をひどく痛めずに読み返すことのできる少数の作品の一つであり、好き嫌いでいえば最も好きな作品であることを、ここに告白しておきます」

 この中におさめられた「泉」は、リツと言う名の農婦が山の野原で、5人目の子供(長男のあと二人目の男の子)を出産するという話で、『野』というタイトルに込めた人間の「基本的な生の営み」(秋山駿の解説)を描いた短編といっていいだろう。
 この作品を声にする、つまり朗読するにあたって、どんなことを考えなくてはならないのだろうか。「泉」という作品の冒頭、書き出しの部分、リツが山に出かけると決めるところまでを取り上げることにして、どのように書かれているのか細かく検討して行くことにしよう。

  

三浦哲郎「泉」を読んで、書かれ方と声にする仕方を考える

 難しいことが書かれているのではないのに、一筋縄ではいかないぞと思わせられる。そこにはこんな事情があるのではないか。 
 農婦が野原で出産するという話を作者三浦哲朗はどんな手法で描き出そうとしたか。男性である作者が「わたし」という一人称で書くことはできないと思ったに違いない。

 出産した当人であるリツという名で、つまり三人称で書くことにならざるをえないと思われる。しかしながら、作者から見てリツはあくまで第三者であり、「彼女」という三人称で語られる存在なのだ。
 どんなに詳しく出産という行為について取材したところで、故郷にとどまっているその経験者である老母からその語りを親しく聞いて描きだしたとしても、リアルな実感、真にせまった体験として読者に受けとめてはもらえないだろう。

 ここで小説の理論書のいうところを聞くのだが、レオン・サーメリアン著「小説の技法ー視点・物語・文体」という本で、こういうことが述べられている。

「ある出来事が、もしとても面白く興味を引くものであるとしたら、それを我々は作家の報告として受け取りたいと思うであろうかーそれとも、出来事そのものを我々自身の眼で見てみたいとか、現場に居あわせたり、直接その人の身にふりかかったり、直接目撃した人自身の口を通して聞きたいと思うであろうか」

 このことは「泉」という作品を朗読するにあたって、ぜひとも参照すべき事柄だ。作家三浦哲郎の脳裏にも、こうしたことが浮かんでいたに違いないのだ。
 物語は著者の報告であってはならない。作中人物の報告あるいは作中人物の眼を通したものであるべきで、作家の眼を通して見てはいけない。多くの作家がそう主張していると、サーメリアンはいう。そしてこう述べる。

「現代の読者は作者の報告に権威を認めたがらなくなってきており、事件の内側を作中人物の眼を通して見ることによって、もっと確かな姿を捉えたいと思っている。この方が読者にとって事件がより身近なものになり、より信頼のおける、より説得力のあるものとなるからである」

 「作者が物語る」のでは、それは所詮作り話だろう、本当のこと、実際あったことを伝えてくれているとはとても思えませんねえ、というわけである。
 ですから「泉」の作者はこう考えたに違いない。

 リツの出産という出来事を男である作者の報告として書くことは、できないし、信用してもらえまい。リツの眼を通して見ることによって、「もっと確かな姿を捉え、読者にとってその出来事がより身近なものになり、より信頼のおける、より説得力のあるものとなる」にはどのように書けばいいのか。

 出産という出来事を読者が、現場に居あわせ、自分の眼で見てみているかのように書くことが目標となる。それには作者の報告とみなされるように書いてはいけない。そのためには作者の分身としての語り手をできるだけ目立たないようにすればよい。

 「泉」という短編作品はこのように書かれている。
 はじめの一節を検討してみよう。冒頭の二文のあとを示すと、

 「あくびの声がきこえるわけはないが、手足を突っ張ってあくびをするのが、リツにはわかる。そのたびに、退屈してるな、と思う。ぐずぐずしていないで、早く出てくりゃいいのにと思う。
 もう、とっくに産み月なのに、今度の子はどうしたことか出渋っているのだ。
 よかったら、早く出てきてくれなければ困るのである。いちいち、あくびに気を取られて耳を澄ましていたのでは、仕事に身が入らなくて、いけない。出るものは出して、身軽になったら、どんなにさっぱりするだろうと思う。すくなくともむこう一年ぐらいは、腹に気をとられることなしに仕事ができる」

 「もう、とっくに産み月なの」である。いつ赤ん坊が産まれてきてもいい状況なのに、リツは野の仕事に出かけようとした。
 小説は「場面の実況」と「要約の説明」という二つの「語り」からなる、と日頃から解説しているのだが、ここは「場面の実況」であるのはすぐわかる。
 だが次のことを考えておかねばならない。
 ここで、実況といっても、行動が実況されるのは「リツは立ち止まった」というだけで、そのほかは外から観察できる行動ではなく、こころの内側が取り出されているという点である。「気がしたからである」「わかる」「思う」「困るのである」「出渋っているのだ」というように。
 これらは語り手が外側から観察し語るのではなく、リツの心の内側にある意識(思っていること)を、読者が直接に受け取っているかのように感じられる書き方だと言えるだろう。
 これをリツに「視点」を置いた書き方という。

 そして冒頭の一文もこんなことに気づく。

 「山へ出かけようとして」という言葉が先に書いてあるので、「ふと、リツは立ち止まった」という第三者(語り手)の報告が、語り手の報告であるという印象が弱められているのだ。

「あくびの声がきこえるわけはないが、手足を突っ張ってあくびをするのが、リツにはわかる」

という一文も同じだ。「あくびの声がきこえるわけはないが、手足を突っ張ってあくびをする」と意識する(感じる)のはリツ自身であって、リツに視点が置かれていて、「リツにはわかる」と語る語り手の存在感は、ここでほとんど消えているのである。

 ところが、つづく次の一節は「語り手をできるだけ目立たないように」という書き方ではない。書き方がここで変化するのだ。

 「リツは、野良着の上から、手のひらでそっと腹を押してみた。産が近いと、下腹の末端まで、じんと微妙な充血感が降りる。
 リツは、ひょっとすれば近いのかもしれない、と思った。一年置きに、四人を産んできた勘である。山行きは、よしたものだろうか、どうしようかと、リツは空を仰いでみた」

 ここでは「リツは・・・」というように主語のリツを初めから立てて文を作っている。

「リツは、野良着の上から、手のひらでそっと腹を押してみた」

 これは、(語り手の視点)で描かれている。

「産が近いと、下腹の末端まで、じんと微妙な充血感が降りる」

 この文は、事実をそのままそこに投げ出したような文で、少なくとも語り手の報告ではない。リツの意識そのものを述べているようだ。(リツの視点)と言えるだろう。

「リツは、ひょっとすれば近いのかもしれない、と思った」

 こちらは、「リツは・・・思った」というのは、語り手の言葉である。
 一方、思ったことすなわち(ひょっとすれば近いのかもしれない)はリツの意識、視点である。
 ひとつの文のなかに、語り手の視点とリツの視点の双方が含まれている。
 単純なようで複雑とも言えそうな文だが、この短い文にふたつ「、」がうたれている。書き手は、このことを意識して、そうしたのだと思われる。
 改めて上記の文をみてみると、そのことがくっきり見えてくるような表記だとわかる。

 こう変えても文意は変わらない。

(ひょっとすれば近いのかもしれない、リツは思った)

 こちらの方が語り手の存在が弱く(影が薄く)なる。
(声の言葉)とすればこちらのほうが余程自然だろう。
(ひょっとすれば近いのかもしれない)はリツの脳裏に浮かんだ想念として声にするのだろう。誰かに伝えると言う意識がほとんどない。自分に向かって言うような声となるだろう。

 これに対し、前者の文は(書き言葉)として形が整っているとは言えるだろう。リツの視点である(ひょっとすれば近いのかもしれない)も、語り手の声がリツに成り変わって言えばよい。この場合は聞き手に届ける気持ちで発せられるだろう。

「一年置きに、四人を産んできた勘である」

 この文は語り手の判断と見るのが妥当だ。そう(彼女が)思ったのはこうした事実に基づく勘である、という判断であり、語り手が読者に説明しているのだ。

「山行きは、よしたものだろうか、どうしようかと、リツは空を仰いでみた」

 ここではリツという作中人物を外側から観察する、語り手の存在を感じるのだが、(山行きは、よしたものだろうか、どうしようか)というのはリツの意識であり、視点はリツに置かれているのであり、それが文頭にあるので、語り手の存在感は薄くなる。
(ひょっとすれば近いのかもしれない、リツは思った)というのと同じことだと理解できる。

 次のくだり、

 「リツに限らず、村の者は大概そうだが、なにか思い余ったり、気持ちを決めかねたりすることがあると、ひとまず空を仰ぎたくなる。べつに天から声がきこえはしないが、なにごとをするにもまずはお天気と相談しなければならない農夫の習慣が、身についているのだ」

 二文で書かれているが、「リツに限らず村の者は・・・農夫の習慣が身についているのだ」という語り手の判断の報告とみていいだろう。つまり語り手の視点である。
(この見極めが大事で、語り手の言葉か作中人物のリツの視点か、このことを見極めずに、文章に書いてある言葉を声にするだけでは、小説の朗読にはならないのである)

 こうして見ると、この「泉」という作品は、語り手をできるだけ目立たないようにして、リツの心の内側を読者が直接受け止めるように書いている部分と、リツの行動を外側から観察し語り手が報告している部分とが、併用されているということがわかった。

 そして「実況」と「説明」という考え方を取り込んでいうと、こう解説できるだろう。

 冒頭の「山へ出かけようとして、ふと、リツは立ち止まった」から「すくなくともむこう一年ぐらいは、腹に気を取られることなしに仕事ができる」までの部分は、「実況」であり「語り手をできるだけ目立たないようにして、リツの心の内側を読者が直接受け止めるように書いている」部分である。

 そしてそれに続く部分では、前半はリツを主語とした文の目立つ部分で、リツの行動を外側から観察する語り手の「実況」という報告であり、後半の「リツに限らず」と始まる部分は、語り手の判断、認識が述べられている「説明」ということができる。

 こうして見ると朗読の観点から言ってここまでで、
 場面の実況には、

1.「リツの心の内側を読者が直接受け止めるように書いて、語り手をできるだけ目立たないようにする」

2.「リツの行動を外側から観察する語り手が報告している」

 この二つの書き方があり、
 この他にリツのおかれている状況を説明する、

3.「リツの行動を外側から観察する語り手が報告する」「説明」という書き方がある、

ということがわかった。

 2と3は「リツの行動を外側から観察する語り手が報告する」という点で同じなのだが、「実況」と「説明」では、声にする時に同じではない。この違いについては、この論考の中でしばしばに出てくる。それらをあわせて理解を深めていただきたい。


 さて以上のことをまず理解した上で、どのように朗読していくかを判断することになる。「泉」を朗読しようと思うならば、このことの理解が根本となるのである。
 ずいぶん難しいことを要求していると思うかもしれませんが、難しいといえば「小説を朗読する」こと自体とても難しいことをしようとしているのです。ここに述べてきたことは「小説を朗読する」にあたって、まず最初の手がかりとなるに違いない。そう思っているのです。

2022・11・3 長谷川勝彦