【 論 考 集 】


2022・12・4 長谷川勝彦

■ 三浦哲郎「沈丁花」を読んで、書かれ方と声にする仕方を考える ■

 前回の「三浦哲郎『泉』を読んで、書かれ方と声にする仕方を考える」で述べたことを、より深く理解していただこうと思い、その続きを書く。

 「泉」は、リツと言う名の農婦が山の野原で、5人目の子供(長男のあと二人目の男の子)を出産するという話である「泉」という短編は、その話を男性である「作家の報告として」ではなく書こうと考えて創られていた。

 今回は同じ三浦哲郎の「短編連作集『野』」から「沈丁花」という作品をとりあげる。ここでは、作中人物を語り手にする、という書き方が採られている。

 「読者にとって事件がより身近なものになり、より信頼のおける、より説得力のあるもの」になるような書き方を選んだのであり、作者の分身である語り手は姿を消し、読者が出来事を「作中人物の眼を通して」直接、聞いたり、見たりするかのように書き表してある。どういうことか、詳しく検討して行こう。
 そして、「説明の語り」と場面の「実況の語り」についても解説する。 

  

三浦哲郎「沈丁花」を読んで、書かれ方と声にする仕方を考える

「沈丁花」の書き出しはこんな風に始まる。

「あれは、ちょうど沈丁花の花ざかりの頃のことでしたから、三月です、三月の生暖かい夜ふけのことです-----と、出稼ぎ帰りの与平は語る」

「出稼ぎ帰りの与平は語る」と報告するものがいる。それは書き手(作者)であるだろう。この一文全体は作者の報告だが、「あれは、ちょうど沈丁花の花ざかりの頃のことでしたから、三月です、三月の生暖かい夜ふけのことです」という部分は(出稼ぎ帰りの与平)の言葉となっている。
 その(出稼ぎ帰りの与平)が語って報告するという形でこの「沈丁花」と題されたお話はなりたっている。そう作者は読者に告げ、その後は作者は姿を消してしまう。
 
 いわば作者は陰に隠れてしまい「語り手」という仕事を、(出稼ぎ帰りの与平)に任せてしまうのである。もちろん、その裏に作者が存在するのだけれど。(「吾輩は猫である」の裏に漱石が存在するように)。
 与平の語る言葉はすべて、三浦哲郎という作者の創作したものではあるのだが、読者は与平の言葉として受け止めることになる(朗読なら与平の声で聴こえる)。そうした構造になっている。
 まさに体験者が語るのだから、リアルで真に迫った話(読者にとって「より身近なものになり、より信頼のおける、より説得力のあるものになる」)と言うわけである。
 
 その与平がこう語り始めて、「沈丁花」のストーリーは始まる。

 「そんな夜ふけに、眠っている耳許で突然人の叫び声が起こったりしたら、誰だってびっくりします。わたしも、びっくりして目を醒ましました。火事かと思いました。火事を見つけた誰かが大きな声を上げたのかと思いました」ー(例文1)

 まさに与平の口言葉そのままで書かれている。
 作中人物である与平の読者への報告そのもの。「沈丁花」は(与平を語り手にした小説)なのである。
 そして、このストーリーの冒頭の部分は、与平という語り手の報告という「説明の語り」なのであって、これは実況ではないのだ。
 その時、「三月の生暖かい夜ふけ」にある出来事が起き、その時、与平が思ったことの「説明」である。その時こんなことを思ったことです、と過去を振り返って説明しているのだ。

(「実況」と「説明」という、私が小説の文章を分析するのによく使う言葉については、この論考集にしばしば出てくる。それぞれ音声で表現する際、違いがある。ここではこう説明しておこう。
 時々刻々と時の移るにあわせて事象を述べて行くのが「実況」で、「説明」はある幅のある時間内の状態や起きたことをまとめて要約して述べる、という違いがある)

 このあと、「火事で焼け死んだという話は何度も聞いている」とか「出稼ぎの仲間が12人雑魚寝をしていた」とか「窓には鉄格子が嵌め込んである」などの、出稼ぎ労務者の過ごす宿舎の様子の「説明」が10行ほど続き、その「説明の語り」はこう締めくくられる。

「東京の夜は、田舎と違って、外よりも家のなかの方がよっぽど暗い。いまはもう騙されませんが、馴れないうちは、寝しなに部屋の明かりを消すたびに、おや、外は今夜も月の夜かと思ったり、夜中に目を醒まして、窓から見える薄桃色の空をさては遠花火かと思ったりしたものです」ー(例文2)

 (決して都会に住む人間には言えない言葉ですね。出稼ぎの人の言葉としてのリアリティーに感動します。この作品はこんな言葉が溢れているのです)
 これも与平という人物が語り手となった「説明の語り」である、ということは了解し得よう。「思ったりしたものです」といっているように、過ぎ去った時間の中で思ったことを述べている言葉である。
 
 じつは、このあと「場面の実況」の語りへと変換して行く。行が変わっていきなり「説明」から「実況」に変わっていくのである。
 この見極めが朗読する上で重要なポイントになる。ここで、まだ説明が続いているように朗読してはいけないのだ。
 小説というのは、コレコレこういうお話でしたと出来事を要約して説明するものではなく、出来事の細部を事細かに、リアルに伝えたい。そのために実況が必要なのである。
 
 ではその、場面を実況する語りとは、説明の語りとどう違うのか、検討することにしよう。
 実況するのは誰か、その時、その場に居合わせた与平だ。こんな風に書かれている。
 与平が語るのだから、「・・・である」「・・・だ」などとは言わず、「きこえません」「見えました」「ないようです」などと、「・・・デアル」というのではなく「・・・デス、・・・マス」で文が終わるように書かれている。

「部屋のなかの暗がりは、焦げ(キナ)臭くもなければ煙たくもなくて、耳を澄ましてみましたが物が焼け爆ぜる音もきこえません。まずは、ほっとしましたが、そんならいまの叫び声はなんだったんだろう。俺は夢でも見ていたんだろうかと、そのままぼんやり窓の方へ目を向けていると、誰かがそろそろと起き出していって、その窓辺に立つのが見えました。」ー(例文3)

 

「腕組みをして、背中を丸めて、鉄格子の間から外の様子を窺っているのが、わたしのところから影絵のように見えます。すると、この仲間も、その叫び声で目を醒ましたんだろう。そんならあの声は夢じゃなかったわけだと、そう思ったとき、
『火事な。』
と寝ている仲間のひとりが、窓辺の仲間に訊きました。
 アルミサッシの窓を開けると、近くの環状道路を行き交う車の音が流れ込んできます。けれども、外にはなんの騒ぎもないようです。
『.....なんも見えねじゃ』
やがて、窓辺の仲間がそういいました。それから、『沈丁花の香っこばかり、してら』と独り言のように呟いて窓を閉めると、寝ている仲間たちの足を踏まないように気をつけながら、自分の寝床へ戻りました」ー(例文4)

 実況の場面はここまで、ひとまずここで実況が終わる。
 言い換えると、ここまで例文3と4のところでは、ひとつながりの時間が流れているのである。現在進行中のこととして描かれる。
 文末だけを書き出すと、

「・・・きこえません」「・・・なんだったんだろう」「・・・見えました」「・・・見えます。」「・・・目を醒ましたんだろう」「・・・訊きました」「・・・流れ込んできます」「・・・なんの騒ぎもないようです」「・・・そういいました」「・・・戻りました」

 となっていて、時間の推移にしたがって、聞いたり、思ったり、見たり、感じたり、している様子が、順序通りに、今現在が写されている。時間の流れにしたがって今現在をそのまま写す、これが実況するということなのだ。

 さてここで、こんな疑問をもった人もいるだろう。
「今現在」というけれど、ここで実況されているのは、すでに過ぎ去った時間、過去の出来事を話しているのではないか、という疑問である。
 「あれは、ちょうど沈丁花の花ざかりの頃のことでしたから、三月です、三月の生暖かい夜ふけのことです-----と、出稼ぎ帰りの与平は語る」と作品冒頭にある。
 したがってこのお話は、何年前の三月なのか書いていないが「出稼ぎ帰りの与平」が語るというのだから、稲刈りが終わって出稼ぎに行き、正月もすぎてから帰ったとすれば、恐らくそのあとしばらく経った三月のことではないかと想像される。つまり、過去の出来事ごとについて言っていると判断される。

 ところが「今現在をそのまま写す、実況する」と言う。矛盾ではないかという人があるだろう。ところがここでは、過去のその時を「今」とする「場面の実況」の語り方なのである。
 ここに言うその時の「今」は、「物語上の今」といわれるもので、語り手が過去を「現在として語る」のである。
 「実況の語り」では、過去のその時点に、語り手が身を置いているとも言えよう。そして、読者(朗読の場合は聞き手)をも、過去のその時点に身を置いているかのように、思い込ませている。
 これはまさに小説の語りにおける「トリック」と言っていいだろう。

 読者に過去のことを語りながら、読者をその時、その場にいて、いま目の前で見ているように思わせる「語りの技巧」なのである。
 このように、書かれたものを音声にして読んでいく朗読には、それなりの「語りの技巧」が必要になるということなのだ。ではどのような技巧、技術であるのか、それを考えていこう。

 先ほど言った「過去のその時点に、語り手が身を置いている」ということが肝心だろう。語り手は、今起きている事態をその場で見ているかのように伝えている。これが実況ということだ。
 現場の緊張感の中に身を置いているということ。
 例文3で言えば、その場の匂いについて言う。この場合、匂いがしないと言うのだが。
 例文4で言えば、「近くの環状道路を行き交う車の音」が聞こえている。
 その場にいるということは、見たり、聞いたり、匂いを感じたり、感覚がフル動員されているということ。朗読する者は、語り手に同化して、そうした状況の中にいるつもりで「語る」のである。そうした技巧なのだ。

 また、例文4をみると、時々刻々と時が移っていくのが感じられるだろう。

「すると」「そう思ったとき」「やがて」「それから」

とあって、時の推移、経過を感じさせるように書かれていることがわかる。
 この場には時間が流れている。

 朗読に当たって、このように、時間が流れていることを聞き手に感じてもらえるように読むことが大事なポイント。
 そのためには、先ほど「語り手に同化して、そうした状況の中にいるつもりで「語る」」と言ったが、ここでもその「つもり」になること、つまり自分の心の中にその場にいるんだ、その場の時間の中にいるんだ、と思い込むことが必要なのだ。 

 それにはこんな技巧もある。
「すると」「そう思ったとき」「やがて」「それから」という言葉のあとに一瞬の「間」(ポーズ、休止)をおく。その一瞬の空白が聞き手に時間が経過しているという感覚を呼び起こすのだ。
(この「空白を感じさせる」技術は朗読術にとってきわめて重要。ここで具体例をもっと上げて説明することはできないが)

 先ほどあげた「説明の語り」(例文1、2)をもう一度読んで、「場面の実況」との違いをみると「説明の語り」では時間が流れていないことがわかるだろう。

(東京の夜は、田舎と違って、外よりも家のなかの方がよっぽど暗い)

というのは、今も以前も、時の流れに無関係に「暗い」のだ。

(いまはもう騙されませんが、馴れないうちは)

とあって、「馴れないうち」という、一定の幅を持った時間である過ぎ去った以前のことをいう言い方をしており、今の進行中のことではない。

(おや、外は今夜も月の夜かと思ったり、夜中に目を醒まして、窓から見える薄桃色の空をさては遠花火かと思ったりした)

のは、過ぎ去った以前のある一定の時間の幅のなかで思ったことで、実況のように、思った瞬間、その時のことを言っているのではない。

 過去のことを言う時、今起きている臨場感がないので、緊張感も薄れる。説明の語りでは聞き手が納得する、と言う点が大事なのである。そこに語り手の意識が向けられている。一方、実況の語りでは臨場感と時が経っていくと言う感じがあるかどうかが大事、という違いがある。

 さて、以上のことを押さえた上で、「説明の語り」「場面の実況」どちらであっても、語り手が読者に向かって語る、伝えると言う点では、共通していることを強調しておこう。

 「読者」というと、具体的に目の前にいる存在と考えられにくいだろうが、書かれた文章である小説の文章を朗読するには、それを(音の言葉の文章)としなければならない。そのためには、聞き手が目の前に存在していると、想定すること(そのつもりになること)が必要だ。
 言葉とは必ず語り手がいて聞き手がいなければ成り立たない。必ず誰かが誰かに向かって語ったり話したりするものである。たとえ独り言だって、自分に向かってしゃべっている。

 このことを頭に置いて、先程あげた「説明の語り」(例文1、2)を音にしてみよう。

 語り手は出稼ぎ帰りの与平。その与平が何人かの聞き手を前にして、その人たちにに語っているつもりで語る。聞き手はどんな人たちかそれは特定できないが、この小説を読む人たちが想定されている。
 「体験者は語る」という言葉があるけれど、自己の体験を物語るケースが多い。我々も実生活でしていることでもある。この「沈丁花」でもそうである。
 とは言え、小説は小説家が工夫してこしらえあげた「語り」なのだ。当然、我々のそれとは格段に違うはずなのである。
 自己の体験を、そのことについて何も知らない聞き手に向かって語るのだから、聞いている人たちによくわかるように語ることがまず求められる。
 この読者(あるいは聴き手)に「よくわかるように」「伝わるように」と言う点で、作家たちがいかに工夫しているか、考えるべきだろう。それを具体的に想像しながら読むと朗読する上でとても役に立つ。「実況の語り」はその工夫の一つなのだ。

 ともあれ朗読するあなたは与平になったつもりになることが大事。与平はどんなしゃべり方をするんだろうか。肝心なことは、朗読するあなたが語るのではないと言うこと。あくまで与平が語るのである。

 その練習は・・・これ。

「もしもし亀ヨ 亀さんヨ 世界のうちでお前ほど 歩みの のろいものはない」ー成人(自分が言うつもりで言う)

 「セリフ」の練習にといってこの論考で提示しておいたものだが、それだけにとどまらない。朗読練習の基本中の基本といって好さそうだ。
 そもそも朗読は自分の言葉をしゃべるのではなく、他人の言葉をしゃべるものと知るべきなのだ。作中人物の言葉「セリフ」は当然のこと、地の文も語り手の言葉をしゃべるのであって、自分の言葉でしゃべるのではないのだ。語り手である人物になった(つもり)で語るのである。

 そして「実況の語り」の場合、過去のことを語っているのに、今その場にいて、自分の目で見ている(つもり)で語るのだ、と言った。してみるとこの(つもり)という、身の置き方というか、心づもりの仕方というか、これが朗読の鍵なのではと思えてくる。
 別の人間になった(つもり)、例え過去のことでも今その場にいて見ている(つもり)、この(つもり)という(構え)を持つ、これこそ朗読を志すものが持つべき技能の第一ではないか。
 そう難しいことではない。
「もしもし亀ヨ、亀さんヨ」で練習できるのだから。

「桃太郎さん 桃太郎さん お腰に付けたきびだんご ひとつ 私にくださいな」

でいい。
 誰かになった(つもり)で言うのだ。簡単なことではないか。

2022・12・4 長谷川勝彦