【 論 考 集 】


2018・11・10 長谷川勝彦

■ 志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の書かれ方と声にする仕方 ■

 今回のテキストは志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」(新潮文庫)。
志賀直哉は「小説の神様」といわれるほどの文章の書き手であるといわれるが、わたしには鷗外、漱石ほどの文学者であるのかどうか判断がつきかねる。
 「小僧の神様」を読んでも「清兵衛と瓢箪」を読んでも、どれほど人を動かすかといえば、どうだろうか。判断基準は人によるのでなんとも言えないが、とにかく「うまい書き手」であるという判断を肯定した上でなければテキストに取り上げる甲斐がないことは事実だ。

 そこで(何が書かれているのか)、つまり、何を言わんとするのかという観点はともかくとして、それは各人の読みに任せることにして、ここでは、(どのように書かれているのか)という観点から、この作品、志賀直哉の書いたものを詳しくみていくことにしよう。
 そう長くはない作品なので、まず全編を読んだ上で、この文章を読んで欲しいと思う。
 ともあれ(どのように書かれているか)を知ること、少なくともそれを読み取る気持ちを持つことが、朗読する上で是非とも必要だということを語っていくつもりだ。 

志賀直哉「清兵衛と瓢箪」の書かれ方と声にする仕方

 一読して別にむずかしいことが書かれているわけではないとわかる。作者が言うように「清兵衛という子供と瓢箪との話」である。
 これはそういう話だと作品の要約を冒頭で作者が語る、これがこの作品の書き方の一つの特徴といっていいだろう。「このできごと」の話の外で作者がそう言っている。
 冒頭の三行と末尾の三行はそのように書かれている。「話」の枠づけをするようにして書かれているのだ。

 清兵衛はかつて瓢箪に熱中したように今は絵を描くことに熱中していて、そろそろ彼の父が彼の絵を描くことに叱言を言いだしてきた、と言うのだがこのことは「この出来事」の中のことではない。出来事が終わったあとのことまで、作者が読者に向かっていっている。
 いわば作者が直接出てきて読者に向かって語っているようなものだ。
 そして、清兵衛と瓢箪との話、つまりその出来事を語り始めるのは(これを「物語る」というのだろうが)こんな一文からである。

清兵衛が時々瓢箪を買ってくることは両親も知っていた

 ここから「語り手」が語り始める、物語し始めると考えるのだ。
 まず、この一文には二つの情報が含まれていることに注意しよう。
 一文で伝えるのが一つの情報とは限らない。これは、朗読つまり文を音声に変換するにあたって心得ていてよいことだ。

A 清兵衛は時々瓢箪を買ってきた。
B そのことを両親も知っていた。

 語り手はAの情報だけでなくBの情報も等しく伝えたいのだ。清兵衛と瓢箪との話と作者が言いながらも、親のこともこの話の主題にかかわる。
 「両親も」の「も」のもたらすニュアンスを考えよう。知ってはいたのだ。あんまりいいことと思ってはいないが、やめさせるでもない気持ちだった、そんなニュアンスがこの伝え方から伺うことができるだろう。
 のちのち、われわれは清兵衛と瓢箪の縁が切れるきっかけを父親の行動がひきおこすのを知ることになる。

 さらに言えば、買うという行為は金銭の問題につながる。「三、四銭から十五銭くらいまで」で清兵衛が買ってきた、その瓢箪が、丹精込めた彼の手入れによって、さまざまないきさつを経てだが、結果としてついに六百円で売買されたことを、物語の最後で我々は知らされることになる。
(ここで一言。朗読するとは、あらかじめ一つの物語を終わりまで読んでからすることであるとは言うまでもない。朗読者は話の展開をすべて心得ているはずなのだ)

 それでは、ここから、冒頭におかれた、物語の外からの作者の語り(三行)とそのあとにつづく語り手の語り(四行)の、文章の様相、書き方の違いについて気のついたことをのべよう。
 その違いを無視して同じように読んでいくことが多い。それではいけないのだと強調したい。どうしてそうした読み方、表現では、この文章が示す意味合いを伝えていないと感じるのだろうか。
 次のようなことに気がついた。
 作者の語りである最初の三行は三つの文(センテンス)からなるが、前の文と次の文のあいだが(それで・・)と聞き手が相槌をうつような、次の言葉を催促するような気分で繋がっていくことに気がつかないだろうか。
 実際に声に出して読み、実感していただきたい。

 これは清兵衛と瓢箪との話である。このできごと以来清兵衛と瓢箪とは縁がきれてし
まったが、まもなく清兵衛には瓢箪に代わるものができた。それは絵を描くことで、彼
はかつて瓢箪に熱中したように今はそれに熱中している・・・

 この(作者が語る部分)についてはあとで詳しく分析するが、ここではとりあえず、すらすらと読めてしまうこと、そしてそのように読んでよいのだということだけを述べておく。こんな具合だ。二箇所ある文と文の間に(それで・・)を入れたつもりで読むのである。

―これは清兵衛と瓢箪との話である。(それで・・)このできごと以来清兵衛と瓢箪とは縁がきれてしまったが、まもなく清兵衛には瓢箪に代わるものができた。(それで・・)それは絵を描くことで、彼はかつて瓢箪に熱中したように今はそれに熱中している・・・

 (それで・・)は声には出ない。話を聞いている人(語り手ではない)が心の中でそう思っていると、語る方が思っているということだ。

 つぎに、これにつづく4行の部分を検討する。
 こちらは語り手による語り出しであって、ここから物語が始まる。
 よく読むと、前の三行とは文と文との繋がりかたが違うのがわかる。前の文と後ろの文の関係が前のとは違うのだ。
 (そうですか・・)と聞き手がそのこと自体に納得し黙って聞いているしかないというか、展開を予測する手掛かりがまったくみつからず(それで・・)の場合のように、つぎはどうなるんですかと問う気が起きない。こんな風に書かれている。

 清兵衛が瓢箪を買ってくることは両親も知っていた。三、四銭から十五銭ぐらいまで
の皮つきの瓢箪を十ほども持っていたろう。彼はその口を切ることも種を出すことも一
人で上手にやった。栓も自分で作った。最初茶渋で臭みをぬくと、それから父の飲みあ
ました酒を蓄えておいて、それでしきりに磨いていた。

 とはいえ、朗読教室で読んでもらっても、前の三行と同じようにすらすらと続いていくように読む人が多い。たしかにすらすら読めるように書いてある文章なのだが、この場合そう読んではいけないのだ。
 文章の性質の違いといえばよいのだろう。
 こちらの文章の場合、文と文の間に(それで・・)があるようにして読むと良い。

 この二つの性質の違うそれぞれの文章に、名前をつけて区別しやすくすればいいのだろうが、その名前をどうつければ良いのか名案がない。しかし、違っていると言われて改めて読んでみると、その違いが見えてきて、そのように声に出して読めるのではないか(これでは納得がいかないか)。

 名案がないとつい言ったのだが、こうすることにしよう。

「それで・・の文章」

「そうですか・・の文章」

 と名付けて区別することにする。読者(朗読の場合聞き手)の反応の違いに注目して分けたということになる。詳しく解説しよう。

「そうですか・・の文章」で物語が始まっている。まずこれを解説しよう。

「清兵衛が・・・両親も知っていた」とあって、そのあとに「三、四銭から十五銭ぐらいまでの皮つきの瓢箪を十ほども持っていたろう」とつづくとは聞き手には全く予測できないこと。
 だから、次にどう語るか、書き手(語り手)にとっては全くフリーハンドなのであって、次に語られることがどうなるか可能性は無限にある。書き手(語り手)はそこで決断し、多くの可能性の中からそうつづけると選択した。

 ところが、聞き手にとってみれば「そうですか・・」と黙って聞くしかないのだ。いわば語り手の言うがままに、どこかに連れていかれるのであって、物語の聞き手は全くの受け身の立場に置かれている。
 物語する場で、書く(語る)者は作者と云われ、事態の進行の全てを支配する。そして、それを読む(聴く)者は全てをまかせて受け容れる。小説などのジャンルを創作と云うことのあるのはそのことをいっているのではないかとも思われる。

 すべては作者が創作する、初めてつくりだすことなのだから。聞き手は、いわば未知の世界に連れていかれるのであり、それは当然のことなのだ。
 朗読のことにして言えば、そのように朗読者は「そうですか・・の文章」を読まなければならない。

 それでは冒頭の、作者が語っている三つの文、「それで・・の文章」はどんな性質を持っているのか。立ち戻ってさらに考えてみよう。
 読み方の違いは、こちらの方はどんどんつながっていくことが実感できる。何故そうなのか。

 この文章が全体としてどんな働きしているかと考えることが必要になりそうだ。作品末尾の三行と合わせてであるが、こんな働きをしている。

1 これからはじまる物語(始まりと終わりのある一つのまとまりを持つ出来事)の内容を予告する。
2 物語の外で作者が語っている。
3 出来事の途中ではなく、すべて終わったあとのことも語られている。
4 この物語をどう受け止めて欲しいのか、読者(聴衆)を導いている。

 4の働きがポイントだ。
 清兵衛は瓢箪に夢中になったが今では絵を描くことに熱中していて父を怨む心もなくなっている。しかし、それでも彼の父は、彼が絵を描くことに叱言を言い出している。
 作者からこう聞かされて、読者(聴衆)は、物語が瓢箪に熱中したこども清兵衛の話だけにとどまらず、清兵衛が瓢箪や絵を描くことに夢中になったこと、あるいもっと言えば、美とか芸術を追い求める人間であることに対する父親の側の態度、姿勢を問題としていることに気がつく。

 つまりこの文章には狙い、目的がある。ところが、最後まで聞かないと何が狙いなのかはっきりしない。
 例えば「その窓を開けてくれないか」という文には目的があり、この文は、まとまりを持つ一つの文であり、それだけ聞けば目的が何かすぐ分かる。
 ところがここにあげた冒頭と末尾の文章は終わりまで聞かないと目的がはっきりとは判断できないように書かれている。だから読者(聞き手、聴衆)は一つの文を聞くたびに「それで・・」「「それで・・」と聞いていかなければならないのである。

 そうして末尾の「しかし彼の父はもうそろそろ彼の絵を描くことにも叱言を言いだしてきた」で、そうか・・父親の態度、姿勢を問題にしているのかと了解するのだ。そのように作者はこの作品を書いたのだと言えよう。朗読はその作者の目的、狙いを聴くものに届けなければならない。

 ここでは一文、一文はその文に書かれた情報を届けることだけが目的ではないのだ。その全体で届けたい意味合いが別にあるのであり、それを届けるのを目的としているのだ。
 一方、聞き手にとって「そうですか・・」と黙って聞くしかない物語の部分は、朗読するなら、一文、一文の情報を聴き手の耳に届けることが重要であって、聞き手にその一つ一つの情報を記憶の中に貯蔵していってもらうわけだ。そのように考えて読んでいくべきなのである。
 けれども「それで・・の文章」はそうではない。

 「それで・・の文章」と「そうですか・・の文章」については、この辺できりあげて、つぎを読み進めて行くことにしよう。

 つぎにとりあげる文章はいままでとは性質が違う。
 その部分部分をどう呼べばよいか、一応ここでは「小節」と呼ぶことにするが、いままでの二つの小節つまり「それで・・の文章」と「そうですか・・の文章」と次の小節とでどのようにちがうのか、考えていくことにしよう。それを「場面の語り」と名付けることにする。

全く清兵衛の懲りようは激しかった。

 と、一つのエピソードを要約した文で始まり、このあとその「懲りよう」について具体的に語るのだが、ひとつの場面という形で表現されているのが特徴だ。こんな風に書かれている。

 ある日彼はやはり瓢箪のことを考え考え浜通りを歩いていると、ふと、目に入ったものがある。彼ははっとした。それは道端に浜を背にしてズラリと並んだ屋台店の一つから飛び出してきた爺さんのはげ頭であった。清兵衛はそれを瓢箪だと思ったのである。「立派な飄じゃ」こう思いながら彼はしばらく気がつかずにいた。―――気がついて、さすがに自分で驚いた。その爺さんはいい色をしたはげ頭を振り立てて彼方の横町へ入っていった。清兵衛は急におかしくなって一人大きな声を出して笑った。たまらなくなって笑いながら彼は半町ほど駆けた。それでもまだ笑いは止まらなかった。

 「ある日」とつづくところで、具体的なある日の浜通りというあるところが特定される。そこで清兵衛のしたことが描かれる。つまり時間の推移に沿って写される。読者を(聴き手)をある日のある処につれていくといえばよいのだろうか。
 行為には前・後がともなう。
 あることが起き、そのあとすぐに別のあることが起きる。場面とは、そのように描かれるものである。朗読はそのことが表現されなければならない。
 確かに実践は難しいかもしれないが、実現すべきことは何かが見えてくればできないことではなかろう。

 映像的に捉えると言えば好いか。「、」や「。」の区切りで時間が移っていくことを感じてもらうようにすることも大事。
 そしてこの場合「笑いは止まらなかった」というところまでのひとつのエピソードというまとまりの感じが欲しい。
 さきの四行(そうですか・・の文章)とはそこが全く違う。
 といって冒頭の三行(それで・・の文章)のようにどんどんつづけて読んでいくわけにはいかない。

 場面として書いてある。それを場面として声に出して語っていくとは何をどうしていくことなのか。テキストに即してさらに考えよう。

 まとまりのある一つの話、エピソードであるとのべた。始まりがあって、事態が推移して、終わりが来る。そんな大げさな話ではないけれども、そういう一つのまとまりなのだ。

 落語に「小噺」というのがある。「向こうの空き地に囲いができたよ」「へえ」というのが一例だが、これは最短形で会話の場面だ。「囲い」ということばと同じ意味の言葉、塀「へえ」でシャレて返答したというわけだが、小噺には「おち」とか「さげ」といわれるのがあってこれがまとまりのある噺ということをあらわす。この呼吸がまず欲しい。

 話の中身は、爺さんのはげ頭を瓢箪と見まちがえるほど清兵衛は瓢箪に熱中していた、ということだが、それではただの説明で、面白くも何ともない。ああそうですか・・と聞いておけば、それでおしまいだ。
 場面として「語る」から面白いのだ。

 では場面として朗読表現するとは、どこをどうすればよいのか。
 説明は要約することが多いが、場面はけっして要約しないと云うことが言える。

 「お月様はどうじゃ」と月の出の具合を聞いた殿様が、お付きの三太夫に「ご身分の高い方は呼び捨てで」と注意され、「そうか、星メラはどうじゃ」と云ったという小噺がある。
 この話の説明をわたしが今したわけだが、これは要約したもの。そうではなくて、これを事態の推移のまま、殿様と三太夫のやりとりのまま、場面として伝えなければ聞いていて笑ってしまう面白みがない。もちろん冗長になってはいけないのだけれど。

 われわれが問題にしているテキストも、ここでは、事態の推移のまま要約されることなく、場面として提示していることがわかる。小噺と同じなのだ。そこにヒントがないか。
 小噺のクライマックスは殿様の「星メラはどうじゃ」といった発言の瞬間にある。そこで笑いが起きる。テキストではどうか。清兵衛が急におかしくなるきっかけを与えたのは「その爺さんはいい色をしたはげ頭を振り立てて彼方の横町へ入っていった」ことだ。そこにクライマックスがあると、気づくことができたかどうか。

 もちろんこれは小噺とはちがう。「星メラはどうじゃ」は完璧なはなし言葉、井上ひさしの言う「口言葉」だ。「その爺さんはいい色をしたはげ頭を振り立てて彼方の横町へ入っていった」はどう見ても書き言葉であって、しかも語句として長く、とても一息では言えない。

「星メラはどうじゃ」はまさしく言葉そのまま「口言葉」なのだが、「その爺さんはいい色をしたはげ頭を振り立てて彼方(むこう)の横町へ入っていった」は言葉ではなく映像なのだ。一息では言えない、しかし、一瞬で見て取ることができる映像だ。

 ここが肝心で「場面の文章」ということができるとすると、それは一瞬一瞬の映像を連ねていく文章なのだ。「ある日」以下のテキストはまさにそうした文章なのである。
 朗読として読むときの心得をいうなら、一つ一つの映像つまりカット、カットの連続なのだから、そのカットとカットを音声でもって映像として表現するということになるだろう。これは言うは易く、行うは難しだ。

―ある日彼はやはり瓢箪のことを考え考え浜通りを歩いていると、ふと、目に入ったものがある。

(彼はやはり瓢箪のことを考え考え浜通りを歩いている)

これで一つのカット。

(ふと、目に入ったものがある)

は言葉としては、つまりこの言葉が意味するものは、見ているという清兵衛の行為をあらわすのだが、つぎの「はっとした」も同じで、いずれも映像としては、見たもの、つまり「それは」でつないだ次の文に書かれた(道端に浜を背にしてズラリと並んだ屋台店の一つから飛び出してきた爺さんのはげ頭)を指し示す。

 このセンテンスの「、」のところで、ふたつの映像、カットが衝突する。
(彼はやはり瓢箪のことを考え考え浜通りを歩いている)と(目に入った)の映像だ。映像の上からは(つづいている)ではなく(切れている)というか(ぶつかりあっている)のだ。そうした「、」だということを認識しよう。
 「歩いていると、ふと、目に入った」という具合にスムーズに接続している(つづいている)かのように思えるけれども、映像としてとらえるとちがうのだ。

 そして

(道端に浜を背にしてズラリと並んだ屋台店の一つから飛び出してきた爺さんのはげ頭)

これで一つの映像。一瞬でとらえる映像なのだ。それを言葉で示しているのを読んでいる方はまだるっこしさを覚える。一瞬でとらえた映像なのだから、説明として読みたくない。

 浜通りで「屋台店が浜を背にしてズラリと並んでいる」がまず目に入り、「爺さんのはげ頭が屋台店の一つから飛び出してくる」がほぼ同時に目に入る。これだけ使う文字の数が多くなると一つの映像として音声にするのが極めて困難だ。

 どうしたらよいか。
 半分に分けたそれぞれの映像なら、そう困難ではないのだが。実際にはそう読むより手はないだろう。
 (道端に浜を背にしてズラリと並んだ屋台店の一つから飛び出してきた)と(飛び出してきた爺さんのはげ頭)この二つの映像を頭に描きながら、その語句をコンパクトに発声すること。

 実際には(道端に浜を背にしてズラリと並んだ屋台店の一つから飛び出してきた爺さんのはげ頭)という具合に休止することなく、(爺さんのはげ頭)という名詞を(道端に浜を背にしてズラリと並んだ屋台店の一つから飛び出してきた)という語句が形容すると認識して、そのように連続した言葉として発声することになるだろう。

 映像は(爺さんのはげ頭)にズームインするのだ。(爺さんのはげ頭)がおしまいの語句だが、そこをひとつの名詞と思って(映像とすれば当然ひとつのもの)しっかり発声することになる。

―清兵衛はそれを瓢箪だと思ったのである。「立派な飄じゃ」

 映像的にはこれで一つだ。二つの文で一つの映像。こういうこともあると認識しよう。
 ここで映像として瓢箪の実物を出すと漫画になってしまう。映画なら清兵衛の表情でしか表現しないだろう。「立派な飄じゃ」は観客に聞こえる清兵衛の声でいう。

―こう思いながら彼はしばらく気がつかずにいた。―――気がついて、さすがに自分で驚いた。

 これも映画なら一連のカットであろう。表情の変化でしか表現できないだろう。

―その爺さんはいい色をしたはげ頭を振り立てて彼方の横町へ入っていった。

 これはすでにのべた。一つの映像。それとして音声化するのは難しい。
「その爺さんは彼方の横町へ入っていった」の中に「いい色をしたはげ頭を振り立てて」という副詞句が挟まっている、という気持ちで読むとしか言えない。「いい色をしたはげ頭を振り立てて」というところに聞き手が注目するように、そこに目がいくような映像として声にするのだろう。

―清兵衛は急におかしくなって一人大きな声を出して笑った。

 これを映像でないという人はいないだろうが、映像として声にするのだ。

(清兵衛は、急におかしくなって、一人、大きな声を出して、笑った)

とコマ切れに読んで言ったら、説明の感じが強くなるではないか。一つの映像なのだからひとつの息で、一息で声にしたい。

 志賀直哉はそのことを意識して「、」を打たなかったに違いない。

 映像として声にするとはこんなことでもある。長い文はそれが難しい。息が持たない人が多い。一息で読む「構え」を読み出す前につくるのだ。つまり「間」をとってたっぷり息を入れておいてから語ることだ。

―たまらなくなって笑いながら彼は半町ほど駆けた。それでもまだ笑いは止まらなかった。

 笑いながら駆けている映像だ。それでこの場面、シーンは終わる。(笑いは止まらなかった)を彼の笑いつづける顔のアップで、このシーンのエンドとするかもしれない。「。」はそのように働いている。

 (たまらなくなって)は映像としては清兵衛の様子がそれを観客の目の前に示すのだが、そうした清兵衛の心の状態そのものは映像にはできず、読み手、聞き手のイメージの中に想起されるものなのだろう。


 以上、志賀直哉の、教科書にも採用されている短編「清兵衛と瓢箪」をテキストに、三種類の性質のことなる文章をとりあげてきた。
 朗読する上で作品の内容、つまり何が書いてあるか作者は何をいいたいのか、ということはともかく、作品がどのように書かれているのかを考察することがきわめて大切であるということを理解していただきたく、この文章を書いた。

 これを是非とも参考にしていただき、作品から受け取った自分の思いを表現するだけにとどまっている朗読から、脱皮するきっかけにしてもらいたい。自分を一個の朗読者として捉え、テキストと格闘して、できる限り作者の思いや文章の技に迫り、捕まえたものを、テキストを声に出して読むことで表現していく、そういう朗読を目指す人に向けてこれを書いた。

2018・11・10 長谷川勝彦