【 論 考 集 】
2020・11・13 長谷川勝彦
■ 基本練習~「ことばの音の適切な発音」と「会話『セリフ』の表現」 ■
◎ 基本練習1~「ことばの音の適切な発音」ドリル
本稿では、朗読の基本練習の「イロハのイ」、日本語のことばの音を適切に発音する練習についてお伝えしましょう。
基本練習として「ア イ ウ エ オ」五つの母音、これをきっちり発音できるようにする練習です。この五つの母音の音を、口の構えをきちんとこしらえて発音することが基本です。
「ア エ イ ウ エ オ ア オ」
という順序で発音する。
一つ一つの音の口の構えを確認するためにこの順番で発音していく。
(なぜ「ア イ ウ エ オ」という五つの母音が基本かと言いますと、「ん」以外の言葉の音は全て、子音+母音であるからなのです。五十音図(あとで示す)をみて、一つ一つ発音して確かめてください。
「か」(ka)でも、「し」(si)でも、「て」(te)でも、「の」(no)でも、「ふ(hu)」でも、みなそうですね)
● ゆっくりと一音一音、口の構えに意識をおいて発音。顔がゆがんでもよいので、思いっきり口の周りの筋肉を動かすつもりで。
通常の発音時にはそんなには動かさないのですが、これは訓練です。
「アー エー イー ウー エー オー アー オー」
と一音一音づつ音を伸ばすこともやってみる。ゆっくりでいいので着実に、口の構えを意識しましょう。
● 今度は、素早く発音する、口の構え、口の開閉を意識しながら。
「ア・ エ・ イ・ ウ・ エ・ オ ・ア・ オ」
一音一音切りながら、素早く次の音に移る、つぎの(音の構え)に移る練習です。
さらに、
「ア エ イ ウ エ オ ア オ」
連続的に素早く発音しましょう。
8音からなる単語のごとくに、あるいは一文であるかのごとくに、発音していく。何度も繰り返して発音すると効果が上がります。
こんどは、
「ア エ イ ウ」
「エ オ ア オ」
と言う具合に、前半と後半をわけて、同じ調子で読んでみよう。
そのあと、
後半のはじめの「エ」にアクセントをつけてみる。
そしてさらに、
前半の「エ」に、そして後半の「オ」にアクセントをつけて。
(わざと不自然なことをするのです。これをすると、単語のアクセントというものが実感できるようになる。はじめ苦労する人ほど、しがいのある練習です)
日本語はこの五つの母音が、子音とひとつになって「ことばの音」を作るのです。
「か き く け こ」は「ka ki ku ke ko 」という具合です。
「a・ i ・u・ e ・o」がきちんと発音されないと「か・き・く・け・こ」という音がきちんと発音されない。
以上で述べてきたことは日本語の発音の基本中の基本と言えるでしょう。
(そもそも日本語の音を発音するのに、意識的にすることがほとんどありません。無意識にでも音が出せる、それが母語ということです。その母語である日本語の音を意識的に出す訓練と言っていいでしょう)
子音(たとえば「ka」のうちの「k」単独の音を子音という)の発音については、解説するとなると、口の中の舌の置く位置、唇との関係などややこしくなるので、省略します(ことばで解説しても呑み込めないでしょう)。
全体として、以下の表の発音をきちんとすることを心がけて(意識して)、何度も練習すればよいと考えます。
「あ え い う え お あ お」
「か け き く け こ か こ」
「さ せ し す せ そ さ そ」
「た て ち つ て と た と」
「な ね に ぬ ね の な の」
「は へ ひ ふ へ ほ は ほ」
「ま め み む め も ま も」
「や(え)(い)ゆ(え)よ や よ」
「ら れ り る れ ろ ら ろ」
「わ(え)(い)(う)(え)を わ を」
「ん」
(「ん」は子音のみの音・特殊な音。「発音」(ハツオン)の(ン)。この音は日本語を発音するうえで重要な働きをしていると睨んでいるのだが、詳しい解説はわたしには無理です。時おり朗読していて、この「ん」という音は意識して発音したほうがいいんだろうな、と思うことがあると言えるのみです)
以上学問的には正確性を欠くことを言ったかもしれませんが、日常生活での言葉の発音、朗読する上での発音で、必要と思われる説明をしたつもりです。普通に発音ができている人にとっては、その発音をより明確に、洗練するためにこうしたレッスンが有効ですよ、と述べたのです。
話は変わりますが、先日寄席に行って思ったことがあります。
最初に前座(入門してまだ日の浅い噺家の卵)が出てきて一席というわけですが、言葉を発音するにあたって口の周りがやたらに動くのが気になって仕方がないのです。ああそうか、若いうちはきちんと聞こえる発音ができるようにと、講座でも稽古でも口の開閉をズボラな発音にならないように仕込まれているのだなと思ったことです。
声も後ろの方のお客にも良く聞こえるように、大きな声が出るように修行しているのだろうと思った。それに自在に声が出るようにならなければ、噺の演出上必要な技巧がつかえないだろうということも。
声が思うように出なければ、芸の幅がひろがらないではありませんか。小さい声は誰でも出せるが、大きな声は訓練しないと出せないものなのでしょう。上記のレッスンを大きな声を出してするのはとてもいい。
朗読は、”芸”といわれるものを要求されてもこまります、と思う人もいるでしょうが、素人ながら”上達”を願うならば、プロの”芸”の上達のプロセスを参考にしたいものです。
噺家の卵の前座からこの道何十年の大ベテランまで、それぞれの話術の下手さ、上手さを比べて聞くことのできる寄席というところは是非行ってみてください。「うまい」ということがどういうことか、実感できるでしょう。参考になるはずです。
◎ 基本練習2~「会話「セリフ」の表現」ドリル
いつもいくお風呂屋さん、銭湯で亀が飼われていて、脱衣室のガラスの向こうに見える。暖かい日差しのもと、小さなプールのような池から出て甲羅干しをしていた。
言葉をかけてやりたくなってつい「オイ 亀さん」と口にしそうになる。すると頭の中でつい「もしもし亀ヨ 亀さんヨ」という童謡の文句が浮かんだ。それでこのレッスンが閃いたという次第。
「もしもし亀ヨ 亀さんヨ 世界のうちでお前ほど 歩みの のろいものはない」
これを童謡の歌詞ではなく会話のやり取りの一部ととらえ、ある場面での誰かの「セリフ」ととらえて発音してみようというのである。
さて、 誰かの、と言いましたが、誰と特定はされずに、誰の言葉でもない言葉というのは存在しません。自分の喋った言葉、あるいは誰かが話す言葉であるのです。
(このことはとても重要なことで、誰かが口にしてはじめて「ことば」になる。はなし言葉が「ことば」の本来なのです。書かれたことば、かき言葉はことばの特殊な使い方なのだ、と認識すべきです)
では実際に口に出して言ってみましょう。
ある人物を想定して、その人物になったつもりで言葉を発するのです。歌のメロディーは忘れること。
自分が言うケースと自分以外の人のセリフとして言う、二つのケースがあります。まずは自分の言葉として喋ってみましょう。
自分の言葉なのに、書いたものが目の前にあってそれを喋るとき、「しゃべる」にならずに「よむ」になってしまいがちです。ここを乗り越えるのです。そのためのレッスンです。
「もしもし亀ヨ 亀さんヨ 世界のうちでお前ほど 歩みの のろいものはない」
ー成人(自分が言うつもりで言う)
こんどは自分以外の人間がしゃべるというケース。小説の登場人物のセリフを朗読の中で言うケースですね。色々な人が想定できます。
「もしもし亀ヨ 亀さんヨ 世界のうちでお前ほど 歩みの のろいものはない」
ー老人(読み手の性で言う)
「もしもし亀ヨ 亀さんヨ 世界のうちでお前ほど 歩みの のろいものはない」
ー子供(男の子でも女の子でも、区別できるかな)
「もしもし亀ヨ 亀さんヨ 世界のうちでお前ほど 歩みの のろいものはない」
ー時代劇のお女将さん風に
・・・・・
そのほかいくらでも発言者を想定するができますので、自分で想像を広げ試してみてください。童話というイメージから脱却することがまず第一でしょう。
こんどは別の例で練習しましょう。これもおとぎ話のイメージにこだわっていてはダメです。
「桃太郎さん 桃太郎さん お腰に付けたきびだんご ひとつ 私にくださいな」
ー成人(自分で言うつもりになって)
「桃太郎さん 桃太郎さん お腰に付けたきびだんご ひとつ 私にくださいな」
ー老人(男でも女でも)
「桃太郎さん 桃太郎さん お腰に付けたきびだんご ひとつ 私にくださいな」
ー子供(男でも女でも)
「桃太郎さん 桃太郎さん お腰に付けたきびだんご ひとつ 私にくださいな」
ー時代劇のお女将さん風に
・・・・・
会話の「セリフ」というのは小説の大事な要素である「場面」をこしらえるのに頻繁につかわれます。そこの朗読の上達には、地の文の語り手の「説明」と違って、言っている意味がよくわかっていても、役に立たないところがあります。
何回も練習して「コツ」をつかむことが肝要で、それしか上達する道は考えられません。基本的には、日頃から普段の生活の中で聞こえてくる会話を聞く耳が必要なのでしょうが。考えてみれば小さい時から人はこうして言語を習得してきたのです。
他人に聞いてもらうのはいい方法です。「何か変」とか「不自然だ」とか批評してもらうといいでしょう。その判断は朗読の先生でなくとも、日本語を使う人なら誰でもできることですから。もちろん自分でもできることなのです。
ここであげた亀さんと桃太郎の、二つの例は一人の発言でした。会話というなら「やりとり」があるはずですね。その練習にはこうした方法があります。
池澤夏樹「都市生活」から例をとると、地の文「ト書き」とも言われる部分、それをはぶいて、「セリフ」のやりとりのみを実際に声に出して会話を再現するのです。
冒頭の部分から抜き出してみましょう。
「ご予約を変更なさいましたか?」
「いえ、しなかったと思うけれど・・・」
「あの、これは三時半のご予約ですが」
「七時五十分の便に空席はありませんか?」
「お待ちください」
「あいにく空席となっております。空きがあれば問題はなかったのですが、明日から三連休ですのでねえ」
「七時五十分と、その後にもう一便ありますが、空席待ちなさいますか?」
「ええ、お願いします。念のために明日の一便の予約を入れてくれますか」
作品を読むとき、それぞれは誰の発言かを読み取らねばなりません。それがわかるように書いてあるはずです。どんな状況のもとでの会話かということも。
こうしてみると朗読というのは、芝居なら男女二人の役者がしゃべるべきものを、ひとりで演じ分けるということをするのですねえ。難しいのは当然なのです。こんなことからも、朗読というものがそもそも「不可能なことへの挑戦」だといいたくもなります。
けれども「落語」という伝統芸能がこれを見事にやってのけていることを我々は知っています。決して不可能なことではないと思って練習に励む(落語の世界なら稽古に励むというだろう)しかないのです。
今度はこの話のラストシーンの「会話」を題材にしましょう。
「そうね。それはいいアドバイスだわ。ぜったいそうしよう」
「いきなり知らない人にこんな話を聞かせてしまってごめんなさいね。でもねえ、きっと知らない人だから話せたのよ」
「なるほど」
「あなたのチキン、冷えてしまったわ」
「いや、まだ食べられる」
「そう、それならいいけど」
「じゃあね、ありがとう」
「いや、こちらこそ」
「ねえ、あなたの牡蠣の食べかたも、すごくおいしそうに見えたわよ」
これだけ読んでも状況や二人の間のこころの交流は見当がつくけれど、テキストを全部読んで練習に臨んでくれた方がいいでしょう。
ここでは二人の位置関係を頭に入れておくことの重要性を強調しておきたい。女性は立ち上がっている。男は椅子に座ったままです。そんなイメージがあるとないとでは、朗読した時に大きな違いとなって表れるのです。
これだけでは「場面」に必要な読者から見えるものが省かれているので、読む者(朗読なら聴く者)の頭の中のイメージ(映像)にならないのですが、演劇や映画なら当然のこととして、二人の言葉のやりとりの場面(役者の動き、その場の情景)が観客から見えている。小説はそれを言葉でおぎなっています。「地の文」と言われる部分です。
その部分を朗読は声に出して読みます。その時にどんなことを考えなければならないか。その考察は、また別のところでしなければならないことでしょう。
2020・11・13 長谷川勝彦