【 論 考 集 】


2023・5・19 長谷川勝彦

■ 柳父章の日本語論に学んで、朗読に及ぶ 1 ■

 日本語や朗読について、とかく専門家、そこまでゆかずとも、勉強しているだろうと見なされがちなアナウンサーという仕事をしていた人間として、日本語についてこれまで随分、先人の書き残した著作を読んできたつもりである。もちろん専門家向けのものではなく一般向けに書かれたものであるけれど。大野晋、井上ひさし、丸谷才一、大岡信といった識者の名が思い浮かぶ。

 ところが、これらの方々のオーソッドックスな日本語論を学んでも、日本語という言語の考察自体、なんと興味深いものかと実感させてくれるものの、朗読の実践にじかに結びつけることができない(日本語で書かれたものを読む以上、朗読にその勉強が役に立っているのは間違いないだが)
 今回とりあげた柳父章という人は、先年亡くなったが、翻訳を通して日本語を考察したユニークな視点から日本語を考察してきたと言っていいだろう。私の目から見ると、彼の繰り広げた考察は、朗読する者にとって、根本的な問題に触れていると思うのだ。

 どこまで皆さんのお役に立てるか、いささか心もとないところではあるが、なんとか論じていきたい。

  

~柳父章の日本語論に学んで、朗読に及ぶ 1~

 「比較日本語論」(日本翻訳家養成センター)という著作で、柳父章がこんなことを言っている。

 一人称の「私はあつかった」はおかしなところは全くない。ところが、二人称の「君はあつかった」はおかしい、変だ。
 が、「花子はあつかった」と三人称では、言うことができそうだ。
 いや、厳密に言えば、言うことができる場合がある、というべきだろう。
 具体的な場を考えてみよう。
 たとえば「私」と「君」との対話の場で、その場にいない「花子」が話題になったとしよう。そういう話題の中では「花子はあつかった」は、二人称の「君はあつかった」がおかしいのと同じで、おかしい。
 それを言うなら「花子はあつかったらしい」とか「花子はあつかったようだ」のように、推量の形に変えなければならないのである。
 これはこういうことでしょう。
 この場合「暑い」というのは、主観的な感覚を表している。「あつい」と感じる人物の視点に立つ表現である。(90度の湯は相当熱い。この「あつい」は高温であるという客観的表現)
 「花子はあつかったらしい」という例では、この言葉を口にする人物は、花子の「あつい」という感覚を直接には知覚できないので、「あつかったらしい」とか「あつかったようだ」と「らしい」「ようだ」というしか、花子ではない以上、言えないということだ。

 では、どういう場合に言うことができるのか。
 物語の一節などの場合である。
 物語で「花子はあつかった」と述べられるとき、発言者は「花子」を客観的に眺める立場にいるのではなく、物語の登場人物「花子」の内面に入り込んで発言しているのである。
 このとき「花子」は一人称、二人称に対立する三人称ではなく、いわば一人称の立場に同化されているのであると言えばいいだろうか。

 こんな風に柳父章は「花子はあつかった」問題を解説している。
 私が注目したのは、「物語の登場人物の内面に入り込んで発言している」と言う指摘であり、「一人称の立場に同化されている」ということである。
 このことは、いままで私の解説してきた、

「その出来事(事件)や作中人物の行動を作者(語り手)という第三者を介さずに、読者に、それらを直接見ているように、その場に立ち会っているように、感じさせる書き方」や、「語り手を目立たないように、できるだけ消す「仕掛け」がほどこされている」といったこと、

と密接に関わっている。

 すでにこのことについては論じてきた。三浦哲郎の短編「泉」と池澤夏樹「都市生活」という、今まで教室でテキストにしてきた作品を題材にして、この点に触れている文章が、この「朗読アート」の「論考集」にある。
 ぜひご参照いただきたい。

※リンクはこちら・・・三浦哲郎「泉」池澤夏樹「都市生活」

 さて、こういうことが言えるだろう。
 「花子はあつかった」というのは、物語、小説特有の文体なのである、と。
 現実の私と話し相手との会話の中では「花子はあつかったろう」とか「あつかったようだ」「あつかったみたいだ」とか言うしかないのだから、小説のように、物語(話の筋)を語る時だけにに成立する言い方なのだと考えるしかないのである。
 そう言えば「吾輩は猫である」というタイトルの文を思い出す。
 猫であれば、この文を人間の言葉で口にすることは考えられず、あり得ないはずである。とすれば、この文は荒唐無稽なことを言っていることになる。
 だが「物語の登場人物の内面に入り込んで発言している」ということを納得すれば(この場合「猫」の内面ではあるが)、それが可能な、十分成り立つことだと納得できるではないか。
 漱石は、小説がフィクションだというのは、そういうことだ、と教えてくれたのであろう。

 物語、小説特有の文体ということについてもう少し述べよう。
 今教室でわれわれが読んでいる小池真理子「深雪」の冒頭。

 それは、古ぼけた粗末な建物だった。白いモルタル塗りの外壁は、どこもかしこも、ひびだらけで煤けている。

 初めの一文が、This is a pen と同じ文形だとわかるだろうか。ただしこれは現在形、原文は「だった」になっている。
 言いたいのこういうことである。
 「これは(一本の)ペン」が「一本のペンだった」になると、途端に「物語、小説特有の文体」になるではないか。「それは一本のペンだった。亡くなった父の遺品のひとつだ。・・・」というぐあいで、なにやら物語が始まりそうな気がしてくる。 
 「××は××である」は単に客観的な事実を述べている。それを「××だった」と過去形に変えただけではないかと思う人がいるだろう。それが過去のことだったと言うだけで意味合いは変わらないと。
 だがそうではない。
 「だった」となると、それが「ある日、ある時」の出来事についての言述となるのだ。「古ぼけた粗末な建物」であるという客観的事実だけでなく、こうした意味合いが生まれる。
 「ある日、ある時、そのように見た人物がいる」という意味合いが。
 そしてそのことは、続く一文にも当てはまる。「白いモルタル塗りの外壁は、どこもかしこも、ひびだらけで煤けている」のをある日ある時、ある人物が見ているのである。
 そうした、ある意味では一つの出来事があったことがイメージされるのである。これを読む人があたかも或るシーンを見ているかのようにイメージしうるのはそのためである。
 そのあとすぐ、見ていた人物は松崎という人に「入んなよ」と言われ、中に入るのだが、安夫という名前だとわかる。
 名前の通りなんとも安っぽい(安夫という身近な人がいたら御免なさい)今時の大学生がこの作品の中心人物(主人公とは言えない「狂言回し」と言う役割だろう)なのである。このあたり作者の見解が反映してるだろう。

 さらに、こういうことも言えるだろう。
 「それは、古ぼけた粗末な建物だった」は物語の開始を告げる文型の一つなのだ。そして「ある日ある時、ある人物が見ている」という意味合いが生まれているということは、つまり物語上の時間がここから始まる。
 それをただ事実を無表情に声にしているかのごとく読むのでは、物語の朗読にはとてもならない。それでは、そこに人がいる感じがしないのですよ。
 このことを納得していただくには格好の素材と言えるだろう。何度も何度も、そうなるよう実地に練習していただきたい。

2023・5・19 長谷川勝彦