【 論 考 集 】


2022・10・13 長谷川勝彦

■ 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読む ■

 この作品は朗読教室を始めた頃、朗読の初心者が始めに学ぶテキストとしてどんなものがいいんだろうか、と考えていて、そうだこれかもと思って取り上げたのを覚えている。大雑把にしかいえないが20年ほどまえかもしれない。
 なぜ初心者にいいと考えたか。
 まず、短い話だということ。
 一つのまとまりをもつお話を聞き手に届けるということが朗読の基本だから。
 そして「赤い鳥」という子供向けの雑誌に発表されたもので、難しい言葉が使われていないし、構成がシンプルであるということ。

 さらに、この方が重要ですが、小説の「語り手」というものを理解するには最適だ、と思えた。
 朗読は、ただ書かれている文章を「よむ」のではない。そうではなくて、作者が語り手に語らせているように、われわれ読み手は、語り手になって「かたる」のである。
 このことを実際にやってみるのに「蜘蛛の糸」は格好の作品だと考えたというわけです。

 ところが教室で皆さんに読んでもらうと、そういうわけにはなかなか行かない。さらには、私が読んでも、そう簡単にできるものではないことに気づいた。
 ただ、朗読は「よむ」ものではなくて「かたる」ものであるという考えは変わりませんよ。「よむ」から「かたる」へどう橋をかけたらいいのか、その難しさに直面したのです。いまだにと言っていいでしょう。朗読の難しさはそこにあるのです。
(文中のテキストは「青空文庫」からとった。ここでは「カンダタ」と表記した)
(この「蜘蛛の糸」のステージでの朗読を録画してもらうことになり、その映像・音声はこの「朗読アート」にアップされている。ご視聴ください)

https://roudoku.art/hasegawa/hasegawa-readings/#kumonoito

  

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読む 〜 その語り手および作者について

 「よむ」から「かたる」へどう橋をかけたらいいのか、これからやって見せよう、「無謀な試みかもしれない」けれど・・・。どの程度実現できるか自信がなかった。結果はどうであったか。はたして満足できるものではありませんでした。
 それなら、朗読するにあたってどんな点を工夫し、実現できたことはどんなこと、実現し得なかったことはどんなことか、振り返って考えてみようと思いたったのです。
 まずステージで朗読する前の段階で、どんなことを考えていたか。そこから始めよう。

「蜘蛛の糸」という作品は「語り手」という存在を理解しやすいと述べた。どういうことか。まず冒頭の部分をみてください。こう語り出されている。

 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊《ずい》からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

 日頃我々が話す口調とはまるでちがう、とても丁寧な言葉遣いと感じるだろう。こう話しているのは誰でしょうか、と考えましょう。ここは極楽、蓮池の縁をお釈迦様が歩いている、と読んでいる我々に向かって、話している人がいる。それを「語り手」と呼びましょう。
 ではその「語り手」はどんな人なのか。それを知る手がかりはないのでしょうか。
 直接どういう人とは書いていない。でも丁寧な言葉遣いをする人であること、そしてもう一つ、極楽にいて、歩いているお釈迦様を見ている人だとわかります。

 ここからは私の想像ですが、京都の大きなお寺の山門の天井に極彩色の画が描かれているのを見たことがありますが、そこには美しい天女たちが裾を翻して空中に舞っている姿があります。その天女のイメージがぴったりではないか、そう思うのです。極楽にいていつもお釈迦様の周りにいるのでしょう。その天女がこう語っている。
 ですからこの作品は美しい声の女性が朗読するのにぴったりだと思うのですが、私が朗読するとなると困ってしまう。そんな声は出せません。どうしよう。こう考えた。

 いつもお釈迦様の身の回りの世話をしている年老いた従僕という存在を想像して読んだらどうだろうと。
 そういう者がいたと想定するのです。「フィクション」といいますね。架空の存在が語り手となる。フィクションではありうること。猫が語り手の漱石の「吾輩は猫である」はそのことを教えてくれる。
 小説の作者は自分が物語を語るのではなく、架空の「語り手」をこしらえ、想定して(漱石の「猫」のように)、その「語り手」がもの語るように書いていくのです。

 ですから小説作品を朗読する我々は、その「語り手」になったようなつもりで、朗読していくことになります。「蜘蛛の糸」を私が朗読するなら、私は「いつもお釈迦様の身の回りの世話をしている年老いた従僕」という架空の存在になったつもりで、朗読ということをするのです。
 「(よむ)のではありません(かたる)のです」とは、こういうことを言いたかったのです。「蜘蛛の糸」で学ぶべき第一はこのことです。

 そのあと考えるべきことは、こうした存在は実際どのような語りようがふさわしいだろうか、どうすればそれらしく聞こえるだろうか、それこそ工夫のしどころです。
 「年老いた」はイメージできないことはない(私自身が老人です)が、「いつもお釈迦様の身の回りの世話をしている」人なら、現に「極楽にいる」ということではないか。そんな人間はどんな口の利き方をするんだろうか。

 心配には及びません。作者がもうすでに、彼の言葉遣いは、文章として書いてくれているではありませんか。
 こうした丁寧な言葉遣いに、我々は日常使いませんので、不慣れです。これをいつも使っている人なのだ、と聞き手に聞いてもらう必要はあるでしょう。こうした言葉遣いになれるまで練習するしかありません。
(口がなれていないとスムーズに言葉を発音できないものです。逆に言えばそれだけのことです)

 ここで一言。
 ここで言っていることは、どんな作品を朗読するのにも通用することです。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に限定したことを言っているのではないということ。他のどんな作品にも通じることです。どんな作品を朗読するのでも、この作品の語り手はどんな存在か、思いを巡らしてください。それが第一歩かもしれない。
 だから朗読についてあれこれ論じているこの論考集の文章から、「一を知って十を知る」つもりで読んでいただきたいのです。これを書く際には具体例として一つのテキストを取り上げてあれこれ言っているわけで、コレもそうアレもそうと、いちいち言及してはいられないからです。

 さて、次に別のことを取り上げます。語り手の存在ということを述べてきましたが、今度は(かたり)の仕方というか方法というか(かたり)そのものに迫って見たい。
 この作品は一、二、三と三つのパートにわかれています。

 ある日の事でございます。・・・(略)・・・御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。

 ここまでが第一のパートです。カンダタがかつてよいことをしたことをお釈迦様が思い出すところは、今見ていることとは違いますが、そのほかのところは今見ていることが映されています。誰の視線、誰の目に映ったのでしょうか。それは語り手の目です。
 これを小説理論では、語り手に「視点が置かれている」といいます。

 第二のパートを見てみよう。

こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、・・・

と始まって、

・・・まるで死にかかった蛙《かわず》のように、ただもがいてばかり居りました。

までの、この第二のパートの語り出しの部分は、語り手がカンダタのおかれた状況を「説明」していると考えられます。
 「ただもがいてばかり居りました」という言い方は、見ている今だけでなく、これまでずっともがいていた、と言っているのです。ある幅のある時間の中での出来事を要約して説明しているのです。
(考えて見ると、語り手も、私が朗読する場合は年老いた従僕ですが、さっきまで極楽にいたのに、今度はカンダタのいる地獄に来て、その様子を見ているということになります。実際にはあり得ないことなのですが、フィクションだから、それもありとするのです)

 これは、語り手が時の推移にしたがって、いま見ているままに言う「実況」ではなく、ある幅を持つ時間におきたことを要約していう「説明」である。このことはわたしの朗読理論の根本にある考えです。
 小説の語りは「実況」と「説明」のふたつの「語りの様式」がある。
 (このことは別の論考でも度々言及しているので、それらを参照してください)

 次に移りましょう。こう書いてあります。

 ところがある時の事でございます。何気なくカンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗(やみ)の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。

 「ところがある時の事でございます」というのは、死にかかった蛙《かわず》のように、ただもがいてばかり居りました、というカンダタの地獄での日々の中での「ある時」つまりある瞬間に、こういうことが起きた、という語りの冒頭です。
 ここから「語りの様式」が「説明」から「実況」に変わるのです。

そして、ここが重要なところですが、「視点」が「何気なくカンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと」の後からは、語り手でなくカンダタに移ります。

ひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。

 見ているのはカンダタ自身であるとわかります。「自分の上へ」といっていることがそれを示しています。この「自分」という言葉がこのあとしばしば文面に表れますから、注意して読みましょう。

 視点が語り手にあって「実況」がなされるのは比較的理解しやすい、つまりどう朗読するか考えやすいのですが、作中人物であるカンダタの視点で実況がなされる、これは表現に工夫がいるでしょう。
 大事なことは「いま自分が見ている」という感覚です。語り手が見ていることを語る(実況する)のは、その相手はといえば「読者」です。ところがカンダタ自身が見ていることをしゃべる時、その相手は誰でしょう。「自分」です。
 ですから、この二つは実際に声に出して「かたる」時、様子がだいぶ違うはずです。すくなくとも「読者」に向けてしゃべるのと「自分」に向けてしゃべるのと、その違いが意識されていなければなりません。

 語りとして「自分」に向けてしゃべるのは、変則的というか特殊という気がしますが、それだけに表現の上で効果的に働くということがいえそうです。つまり、作中人物の心の中が直接語られるのですから。ですから朗読者としては表現のしがいがあると言えそうです。
 「蜘蛛の糸」でいえば、ここはカンダタの話のストーリーが動き始める端緒となるところで、聴かせどころの一つでもあります。

こう続いていきます。

カンダタはこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。

「カンダタはこれを見ると、思わず手を拍って喜びました」までは語り手に視点がありますが、「この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、・・・」と続くところはカンダタの「視点」といっても、この場合はカンダタが「みる」のではなく「思う」ことで、カンダタの「内心の声」とでも言えばいいところです。この後もこうした「内心の声」が出て来ますので注意してください。

 次の部分は語り手の視点で語っているとすぐわかるでしょう。

 こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
 しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦《あせ》って見た所で、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼる中に、とうとうカンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遥かに目の下を見下しました。

 語り手は、カンダタの大泥棒であった過去のことをなんでも知っている存在です。これも「語り手」の特徴です。
 この部分は実況ではなく「説明」です。
 時々刻々と動きを語るのではありません。幅を持つ時間の間に起きたことをまとめて、要約して語っているからです。読んでいて実況のような緊張感が感じられないでしょう。

 次を読むとまた「自分」が出て来ました。視点がカンダタに移ったのです。

 すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。

 ところが、

カンダタは両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。

 ここへ来るとまた語り手の視点に戻ります。「しめた。しめた。」は「 」があるので、外に出した声と思っていいでしょう。
 そしてすぐ次ではカンダタの視点となります。「自分」が出て来ましたね。

ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限《かずかぎり》もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。

 「これは大変なことになったぞ」というカンダタの気持が手に取るように感じられるではありませんか。「内心の声」ですね。考えてみれば、「内心の声」など外からは見えないもので、他人には窺い知れないはずです。だから「年老いた従僕」である語り手が語り得ないものですね。
 それなのに「視点」の移動という「魔術」をつかってカンダタの「内心の声」をわれわれ読者が知ることになる。見事な手口だと言わねばなりません。それが小説の文章なのですねえ。それを我々は朗読しようとしているのです。

 今度はこれに続くくだりを分析することにしましょう。

カンダタはこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦《ばか》のように大きな口を開《あ》いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断《き》れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数《にんず》の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断《き》れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎《かんじん》な自分までも、元の地獄へ逆落《さかおと》しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這《は》い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。

 初めの一文は語り手の「視点」で語られます。
 けれども「自分一人でさえ・・・」のところから「・・・糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません」までカンダタの「視点」、というよりカンダタの「思っていること」を語り手が代弁して語っている形になります。
 これは私の想像です。この「蜘蛛の糸」という作品は雑誌「赤い鳥」に寄せたもので少年少女向けに書かれている。そのため芥川は読者である子供達のために、大泥棒だったカンダタが普段使うような汚い言葉遣いにしなかったのではないか。それらしくするのなら

「元の地獄へ逆落《さかおと》しに落ちてしまわなければなりません」は
「落ちてしまわなければならねえ」

とか、

「大変でございます」は
「てえ変だ」

にするとか、

「落ちてしまうのに違いありません」は
「落ちてしまうにチゲーねえ」

などと、すればいいのです。その方が大泥棒のセリフとしてリアルだとも言えます。
 けれど作者芥川はそんな言葉を児童たちに教えたくなかったのです。

 ところで(一のパート)で先ほど引用しなかったところがあります。この部分です。

そこでカンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗《むやみ》にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

 このなかで「 」で示されたカンダタの音葉は、大泥棒のセリフなら、「命のあるものに違いない」を「命のあるものに違えねえ」とした方がそれらしいと思われますが、作者芥川は「大泥棒のセリフ」そのものではなく、極楽の住人である「語り手」が自分の言葉遣いで語る形にした。そのように考えられるのです。この場合も先ほどのと同じことなのです。 
 いずれにしても、これらがカンダタの内心を表していることは、簡単に納得できますね。それなら汚い言葉でない方がいい。

 この後は(二のパート)の終わりまでなだれ込むように語られていきます。この部分の表現の仕方の特徴です。どういうことか。

 そこでカンダタは大きな声を出して、『こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己《おれ》のものだぞ。お前たちは一体誰に尋《き》いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。』と喚《わめ》きました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断《き》れました。ですからカンダタもたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
 後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

 動きのある、目を離せないような、緊迫した場面です。二のパート)のクライマックスと言えるでしょう。
 その場面を語り手が「実況」している。ここでは、さきほどの部分と違って、カンダタは大泥棒の自前の言葉で喚いている。そのように朗読者は声にすべきでしょう。ここはリアルな方がいい、迫真性を重視したのです。
 「その途端でございます」から後はまさに語り手による実況描写。以下のようにしても、この場面の迫力は感じられる。

 その途端・・・音を立てて断《き》れました。・・・たまりません。あっと云う間もなく・・・・くるくるまわりながら、見る見る中に・・・落ちてしまいました。
 後には・・・細く光りながら、・・・短く垂れているばかりでございます。

 こうして見ると動いていることが実況されているとわかる。時々刻々と何事かが起きる。起きた順に起きたことが写される。「くるくる」とか「見る見るうちに」とか言葉自体が描写となっている擬態語がつかわれている。
 実況だから瞬間的なことだけと思うとそうではない。

 「くるくるまわりながら、見る見る中に」

 これなど、(一瞬)が伸びたようなものか。

 「光りながら、・・・短く垂れているばかり」

 というのは、(動き)ではなく(状態)だ。だから一瞬の出来事ではない。時間の幅がある。
 こうした細かいことが何になると言ってはいけません。こうした綿密な検討が朗読したときに違いとなって現れてくる、そう信じているのです。

 ここまでが二のパートで、次に三のパートが始まる。舞台は極楽に戻ります。ふたつの小節(段落ととらえない、この二つで段落となる)からなる、とても短いとも思われる断章である。

 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着《とんじゃく》致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足《おみあし》のまわりに、ゆらゆら萼《うてな》を動かして、そのまん中にある金色の蕊《ずい》からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午《ひる》に近くなったのでございましょう。

 この部分を朗読するにあたって、こう理解して読むと掴みやすと思われる。

1)御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいました。

2)やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。

3)自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

4)そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、浅間しく思召されたのでございましょう。

5)しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着《とんじゃく》致しません。

6)その玉のような白い花は、御釈迦様の御足《おみあし》のまわりに、ゆらゆら萼《うてな》を動かして、絶間なくあたりへ溢れて居ります。

7)そして、そのまん中にある金色の蕊《ずい》からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。

8)極楽ももう午《ひる》に近くなったのでございましょう。

 こう理解するのです。
3)と4)のところは、(浅間しく思召されたのでございましょう)が同じ言葉が重なっていますね。それを避けて原文のように書いてあるのです。

A(自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が)

B(その心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが)

この両方を(AとBが)と言う具合につづけて書かれている。
 6)と7)でも同じことですね。

 このことさえクリアーすれば、このパートを読むこと自体は、そう難しいことではないと思われる。
 問題なのは、この結末のパートから何を読み取るかということでしょう。作者芥川龍之介はここで何を言いたかったのか、どんな考えを持ってここを書いたのかという、この作品の鑑賞上の問題です。
 わたしは、それについてどんな見方がこれまで発表されているのか、恐らく沢山の見解が出されていると思うのだが、生憎不勉強で不案内と白状する。そこで私見をここに示そうと思う。

 そもそもこの「蜘蛛の糸」というお話はどんな話だと思うか。簡単にまとめて述べよ、と言われてどう答えるか。
 二つの見方があるだろう。

 (カンダタが地獄から抜け出し極楽に行けなかったという話)

 (お釈迦様がカンダタを極楽に救い出してあげられなかった話)

 この二つだ。これを比べてどちらだと思いますか。
 わたしは後者だと考える。
 後者だからこそ、この話に一と三のパートがなぜあるかが説明できる。
(カンダタが地獄から極楽に行くのを失敗した話)だったなら、一と三のパートの意味が薄れてしまう。(二のパート)だけのお話になってしまう。
 「蜘蛛の糸」の話の主人公はお釈迦様なのだ。
 カンダタを主人公ととらえた解説が多いのではないか。
 (自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心)のために(その心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまった)という教訓的なお話ととらえる読み方ですね。

 実はそうじゃない、というのがわたしの読み方。
(お釈迦様はカンダタを助けてあげられなかった)ではありませんか。

その心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

とある。
 つまり、お釈迦様から見るとカンダタの所業は「浅間しく」思えた。カンダタは人間一般ということではないのか。人間というものは、浅ましい存在、言い換えれば、見るに堪えない、嘆かわしい存在なのだと言っている。 
 たとえ御釈迦様が手を伸ばして助けようとしても、人間がそうした存在だということはこの世の(定め)なのであって、人間はそこから抜け出せない存在であり続けるしかない。

 これは「悲観論」と言われる考え方だろう。
 正しくあろうとする現世での努力や救われようとする信仰などで、願っていることが叶うことは決してないのだという考え方。「諦念」という言葉を思い起こすけれど。
 お釈迦様でも助けられないなら、諦めるしかないではないか。これは個人の人生観に止まらない。

 語り手が(一のパート)で「朝なのでしょう」と語り、(三のパート)で「午に近くなった」と語る。してみるとカンダタの出来事は朝から午までに起きたことになるわけだが、これを毎日繰り返しているとほのめかしているようではないか。朝が来て午がくる、そして夜がくる。この世はこれを毎日繰り返す。これは不変の自然界の法則つまり「世の定め」だ。
 作品の初めと終わりに同じように蓮の花、その匂いに触れている。これは、ただ作品の「形」としてシンメトリーの美しさを狙ったということに止まらず、すべては「繰り返す」ということを示唆しているだろう。

 仏教では「輪廻転生」といい、人は何度も生死を「繰り返す」という。また、時間は「無始無終」、始めもなく終わりもないと説く。これに対してキリスト教では、初めに神があり、世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという最後の審判を説く、これは有始有終の直線的な時間論と言われる。
 「蜘蛛の糸」は極楽にいるお釈迦様のお話であって、当然ながら仏教の「輪廻」の時間論、世界観にたっているわけで、わたしはこの話を、この読むのである。

 人はどうあがいても極楽に至ることはないのだ。この世に我々が生きているということは、カンダタのしたようなことが絶えず繰り返されているだけなのだ。明るい未来、幸せな将来などは決してあるわけのものではない。

 なんと暗鬱な人生観であり世界観ではありませんか。芥川龍之介はそういう人であったのだ、と言っても違和感はない。本格的な芥川龍之介論はここをスタートに始まるだろうと思うのだが、論ずるのは朗読論の範囲を超えているだろう。

 ただこの作品が直接的に「暗鬱な人生観、世界観」を表現しているかというと決してそんなことはない。少年少女たちにそんなものを押し付けるようなことはしていない。むしろ初めと終わりで、極楽の蓮池の周りを歩くお釈迦様を見ているような気持ちにさせてくれるではないか。お終いにはカンダタの所業を「浅間しく思し召されている」お釈迦様ではあるけれども。

極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足《おみあし》のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。

 というような、それこそ文字通り「この世のものとは思えない」情景を、読むものは味わうことができる。この辺りは、「 あらゆる価値のうちで美を最高のものとする世界観ないし人生観、 芸術のうえでは美を唯一絶対の目的として追究する態度をいう」と解説されている「唯美主義」を見出してもよいのではないか。そう思うのです。


 この話をテキストに取り上げて以来、思って来たことではあるが、今回あらためて書き改めてみた。あくまでも朗読する立場から「蜘蛛の糸」を読んだものと、ことわっておきます。 私なりに名作「蜘蛛の糸」の(鑑賞と分析)を試みたということになろうか。

2022・10・13 長谷川勝彦