【 論 考 集 】


■ 澁澤龍彦「護法」に逍遥し、その語法に触れる ■

(3/3)

 小野小町このかた・・・「このかた 此の方」は「過去のある時よりずっと」ということ。「卒業このかたずっと逢っていない」とある。
さて

「ふるく小野小町このかた、美形と性的な欠陥とはコレラティヴ(相関的)な関係にあると信じられてきた」

と本文にあるのだが、この「ふるく」は副詞で末尾の「信じられてきた」という動詞に係る。つまり「ふるく・・・信じられてきた」と働いている。朗読の場合このことの理解が大事で、「ふるく」という副詞の後に「間」を入れる、一拍ある読みが求められる。こうしないで「ふるく小野小町このかた」を一気に読んでも意味は伝わるのだが、それでは「小野小町このかた」という用語が生きてこないし、「ふるく・・・信じられてきた」という「係る」という関係が表現されていないと言える。
さてつぎも長い一文をとりあげる。語法とは離れるが澁澤龍彦の小説の文章技法にふれることではある。

 近郷からあつまった参詣人がごったがえしている中に、色のなまっちろく気弱そうな顔をした、まだ二十そこそこにしか見えない商家の若旦那ふうの男があり、さっきから見えがくれにあとをつけてきて、しきりに自分のほうをちらちらとうかがっているのにお紺は気がついていた。

 すべてが定型、常套的な、話芸の高座でも聞くようなことばあるいは言い回しである。とかく高踏的、衒学的ともいわれる、古今東西の文献を読破した博識の作家澁澤龍彦の語法とは、とても思えないというむきもあるかもしれない。だがそれでいて魅力がある不思議さ。これこそ「護法」をふくむ後期の小説群にみられる特徴なのだ。

「近郷からあつまった参詣人がごったがえしている」
「色のなまっちろく気弱そうな」
「二十そこそこにしか見えない」
「商家の若旦那ふうの男」
「さっきから見えがくれにあとをつけてきて、しきりに自分のほうをちらちらとうかがっている」

どれもどこかでかつて聞いたことのあるような気がしてくる。なんだか懐かしいような、子供の頃、外で遊んで夕餉どきにうちに帰った時の匂いのような、ほっとした安心感に満たされる。母語という産着にくるまれている感覚なのだろうか。

 人家もまれな、いたってさびしい道・・・「至って」は「非常に」の改まった言い方で「いたって真面目な」「いたって丁寧に」などとある。

 こころここになく・・・「こころここにあらず」という成句。心を奪われていて、眼前のことに集中できない。「こころここにあらざれば視れども見えず」の漢文口調の例を辞書はあげる。

 ずんずん山道にはいってゆく・・・「ずんずん」力強く進んでいくさまを表現する擬態語。「ずんずん・・・はいってゆく」と働く副詞。「がんがん」「ぐんぐん」「どんどん」など類語。濁音が力動的なイメージを生むのだろうか。

 ・・・にいたっては・・・としか見えなかった・・・こういう語法があっても辞書で確認のしようがない。「いたって」のこの言い方はのってない。だが「いたり」をひくと「勢いの赴くところ」とある。「若気の至り」という。とすると「・・・というところまでいってしまっては・・・なのに違いない」という語法だとわかる。

 みればみられないこともない・・・こんな言い回しもよくある。「見られる」は動詞「みる」に助動詞「られる」がついたもので、「ある状態が認められる」という意味で、その否定形「みられない」。「みれない」とすると「ら抜き」になる。
「・・・こともない」という言い方は「行けばいけないこともない」「買えば買えないこともない」といくらでも例をあげられる。

 お紺は面色青ざめ、乳房の谷間に汗をぷつぷつ吹き出させながら、荒い息づかいで山道をのぼった・・・文のリズム感を感じて欲しい。映像でいうなら三つのカットをリズムよく並べている。

 面色青ざめ、
 乳房の谷間に汗をぷつぷつ吹き出させながら、
 荒い息づかいで山道をのぼった。

一息で発音すべき語句が三つ、リズムよく、それぞれの映像を提示する。句読点の「間」を生かして朗読したいものだ。
語句が三つなので俳句のリズムに似たようなものを感じる。

 歩行は困難を極める・・・「面色青ざめ」と同じく漢文調。
漢文口調の言葉、漢文由来の言い回しは人によって習熟の程度がことなる。時代にもより、鷗外、漱石の時代と今を比ぶべくもない。したがって次第に馴染みがなくなっていくのは仕方がないが、澁澤龍彦の使う程度のものは心得ておきたいものと思う。彼はほどのよい程度に効果的に使っているのではないだろうか。そこに文章技法の一端があると考えているのだがどうだろう。

 ふっと拭ったように消えうせて・・・「ふっと」は擬態の副詞。「消え失せて」と辞書は表記するが「失せて」は漢字で書かず「うせて」とするのが澁澤流。「消えうせる」ということば、一語の音が大事だといいたいのではと想像する。「きえうせる」という古来の日本語なんだ、「消える」「失せる」をあとから重ねてて拵えたのではない、との思い。

 あたかも雲がはれるように・・・口語的にいえば「ちょうど」「まるで」だ、「あたかも 恰も」は文章用語的だろう。

 卒然として理解された・・・「卒然として」は口語では「だしぬけに」ということであるが、「卒然」は漢語で、口語ではつかうまい。「突然」なら口語的、日常語になっているのだけれど。「卒然」を学校で習わなくとも見当がつけられるところが母語のありがたいところだ。そのへんの兼ね合いが澁澤流とも言えるかもしれない。

 余人がみだりに口を差しはさむべき事柄ではない・・・「余人」は漢語だろうが「余人をもって代えがたい」という成句で馴染みがあろう。「みだり」は「みだりに口をだすな」ということばを見知っているだろう。そういった事情から「余人がみだりに口を差しはさむべき事柄ではないだろう」という語り手のことばとしたのだと想像する。
 このあと物語はきわどいシーンで書き手も品位を保ちながらの描写に工夫したと思われるところだが、その分析は筆者の手に負えない課題で、もともと物語内容には立ち入っていないのでここはスルー。

一つこれだけをとりあげておこう。

 龍は淫するとき、かならず龍身を現じて隠すあたわずという・・・「現じて隠すあたわず」と漢文調で示す。この効果をどう考えるか。
「という」とあって何らかの原典のあるのを示している。品位、格調を保ちつつ虚構のロマンを読者に信じさる狙いか。「その通りであろうが」と語り手はつづけている。

 不覚にもつい本性を現してしまった・・・「意識がはっきりしない」で「つい」思わず、本来の姿を現した。「不覚にもつい本性を現す」という形の慣用句。

 ・・・と知るや、その機を逸せず、ただちに・・・「知ると同時に、その機(会)を逃さずに、すぐさま」といった意味。語調がテンポがあってスピード感ある表現ではないか。
「や」は接続の助詞。「会場に着くやいなや」などと今もつかわれる。「その機を逃さず」なら普通につかわれるだろうが「逸せず」となるとどうか。文章のみか。

 神かくしに逢って、行方知れずになった・・・こういうことばをどこでどうして知ることになったのか自覚がないけれど、なぜか誰もが知っているのではないか。新聞やテレビのニュースで知ったわけでもないのに。民俗伝承とでもいえばよいのか。どの民族にもこうした類の言葉があるのだろうと想像される。

 よしんば首だけにせよ・・・「よしんば」は「多く下に逆説の仮定条件を伴って、話し手が肯定しがたい、極端な事態を想定する」とある。この場合、首だけとり替えてしまったのだから「肯定しがたい、極端な事態」にちがいない。「たとえそうであったとしても」の意。類語「かりに」とか「たとえ」ではこの事態の表現には軽すぎるだろう。

 感慨たるや、いわくいいがたいものがあったにちがいない・・・「たるや・・・にちがいない」という語法。「たるや」は「・・・に至っては」という気分。「曰く言い難し」は「孟子」にある語句。「事情が複雑で言葉では簡単に言い表せない」ことをいう。それは何だというと、この場合「岡惚れの相手が自分の女房の地位におさまることになった」という事情をいう。

 ばつがわるいような気がして・・・「ばつがわるい」今でも言わないことはないだろう、「きまりの悪い思いをする」こと。「ばつのわるい」もありだろう。そして「ばつのわるい気分」と「ばつがわるい気分」をくらべるとこの場合「ばつのわるい気分」の方がいいような気がする。

 ねえ、お前さん、ちょっと見てごらん・・・想像上の音声が聞こえて来る。そして、寝巻きの女の手鏡をのぞいている肉付きのいいお尻を向けた後ろ姿が見えるよう。昭和の名人と言われた落語家、文楽、志ん生の高座で演じた長屋のおかみさんたちの声音、口調がよみがえってくる。これは私の思いで、澁澤が落語にふれた文章をみたことはない。

 首をひねっている・・・「疑問に思って考え込む」ことだが、そのほか首のつく表現は多い。動作として、「首をかしげる」「首を縦にふる」「首を横にふる」「首をつっこむ」など。ほかに人とその地位の意味合いで、お馴染みの「首にする」「首をきる」のほか「首をかける」「首をすげかえる」「首に縄をつける」などがある。

 物語も終わりに近づいた。以下、動詞を精彩あらしめることばのついた例をいくつか挙げていく。

(きれいさっぱり)忘れている
(ふっつり)すがたを見せなくなっている
(けろりと)忘れている
(ぽっくり)死ぬ
(つくづく)途方にくれている
(ほとほと)困りはてました
(ふと)目をやると
(ぼんやり)眺めて
(無為に)日を過ごしていた
(とりとめなく)おもいめぐらしたり
(ぱっくり)二つに割れて
(目にもとまらぬ速さで)はしり抜けると
(ははあと)思いあたった

 擬態語のみとは限らないだろう。「副詞」だの「擬態語」だの、論じるさいに要する用語自体は、朗読者が物語を生々しく感じとり、音声表現に活かしていくうえでこだわることはない。文章技法として、なるほどこうしたことばによってありきたりを脱し、豊かな表現をめざしているのだ、と諒解していればよいと思うのだ。

 篠つく雨
 目にもとまらぬ速さ

この二つは、動詞ではなく名詞に、より精彩をあたえる慣用表現の例。
こうした表現、言い回しは今どきの人があまりつかわなくなってきたものではないか。けれども、耳で聞くと妙な言葉だと思う人はいないはずで、むしろ一度でもどこかで聞いたことがあるような気がするのではないか。

 澁澤龍彦に日本語の伝統を守ろうという意識があったのか、なかったのか。いや作家である以上、彼が日本語に自覚的に向き合ったことは間違いないだろう。

 翻訳をいくつも出している彼にとって外国語(フランス語)を通して言語、ひいては日本語に向き合うことは生活そのものであったろう。 小説を書くにあたって日本語へのスタンスをどうとったのか、好きなように書いただけということはないはずで、日本語をどう使って行くかについて書き述べた文章を残してくれていたらと思わずにはいられない。だからせめてあと10年長生きしてくれたら(1987年、59歳で没)と思わずにいられない。

  澁澤龍彦著「うつろ舟」所収の「護法」という小説作品の文章を物語の進行に合わせてたどり、澁澤作品の文章の魅力の一端を探り当てよう、そんな気持ちで歩き出した探索の道でしたが、興味深くかつ愉しみな道のりでありました。「フローラ逍遥」という著作があるけれど「護法」という作品の逍遙をここらでお終いといたします。

2020・4・27 長谷川勝彦