【 論 考 集 】


■ 澁澤龍彦「護法」に逍遥し、その語法に触れる ■

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 みだらなまでに露骨なながし目・・・「までに」は「程度を表す」「ほどに」、「完膚なきまでに」「お見舞いの印までに」「総額五億円までに」「出来上がるまでに」とつかわれる。「までの」ともいう。「露骨」は「あからさま」で「剥きだし」という類語がある。
「露骨なまでにみだらなながし目」と比べてみよう。「露骨なながし目」なのか「みだらなながし目」なのかということになるが、「露骨なながし目」が「みだらなまでに」であると言うのがこの場合に適うと思うが如何。

 お駒のほうがやきもきする・・・「いら立つさま」で擬態語。「じりじり」「いらいら」などあり「やきやき」ともいった。みだらなまでに露骨なながし目に反応がないのに女が抱いた思い。「いら立つ」ではものたりない。「やきもき」でなければ。

 外ではふるように虫の声がしていた・・・「ふるように虫の声がする」常套ともいえる慣用的、伝統的表現だが他にぴたりとくる表現はなかろう。澁澤龍彦はこうした表現を「あえて、好んで」つかう。また「外ではふるように虫の声がしていた」この一行がこのシーンに効果音を加えている。視覚的な情報はこの中に何もない。姿なき虫たちの声のみが「聞こえる」。

 ちくちく蟻にさされたような痛み・・・「ちくちく」

 ずるずる畳の上に引っ張り出しては・・・「ずるずる」いずれも擬態語。

 殺すなんて、とんでもないことだ・・・「とんでもない」はこの場合、相手の言うことを強く否定する語だろう。「とんでもございません」と丁寧語化するのは誤用とされるが「現在はかなり広まっている」そうだ。 

 相手のなすがままにじっと身を横たえ・・・「相手のなすがままに」慣用句的言いまわし。「じっと」動かないさまを言う擬態語。日本語話者なら安心する言い方なのでは。

 ・・・な感じがしないでもなかったが・・・「しないでもない」という一つの「言葉のつらなり」がかたまって働く。「するでもない、しないでもない」「「降るでもない、降らぬでもない」はそれに近い。

 いまさら文句をいってみてもはじまらないだろう・・・「いまさら」とは「適切な時期にしておけばよかったのに、今となっては遅すぎるという気持ちを表す」。
「いまさら・・・はじまらない」という言いまわし。「しかりつけたところで」「許してみても」「謝ったところで」といろんなケースでつかえる。

 朱筆を加えられていた・・・「朱筆を入れる」ともいい、朱で書き入れて、文章を加筆、訂正すること。今では「書道」の教室でみられるだけか。ここでは文字通りに使われているが、加筆、訂正することに一般化してもつかわれるだろう。

 まんざらわるい気はせず・・・「満更」は否定的な語(「わるい気」)のあとにさらに打ち消しの語(「せず」)をともなって、否定の意味を和らげたり、むしろ逆であるの意味をあらわしたりする。
「満更でもない」という「全くよくないと言うわけではない」とか「必ずしも嫌ではない」ということを表すことばもある。「学生時代の成績は満更でもない」などとつかう。
「満更でもない顔つき」ならほとんど満足している。いまどき使うひとが少なくなった表現といってもよいか。

 大いに恩に着ている・・・「恩に着る」は「相手から受けた恩をありがたいと思う」ということ。「これで助かった。恩に着るよ」という具合。「着る」というのが目を引く。

恩は「着る」ものなのだ。それに助詞の「に」、「恩を着る」と言わずに「恩に着る」という。岩波「古語辞典」を参照すると「恩」とは「君主・親などの恵み」、そのうえで「に」を調べるとこうある。

「日本人は行為、動作を、個人的・主体的な能動として捉えるよりも、自然界に生起し、存在する成り行きとして捉える傾向が強かったので、主格を表す助詞を欠くことはあっても、動作の生起、存在する場所については、表現を怠らなかった。従って「に」は極めて重要な役割を帯びる助詞であり、略されることは極めて少なく、万葉集の中で、表記の簡略な巻々でも助詞「に」は略さずに書いてあることが多い」

引用:岩波書店「古語辞典」

そして『「に」の最も基本的な意味は、存在し、動作し、作用する場所を「そこ」と明確に指定する意』であるとし、『「の」が下に必ず体言を予定するのと対照的に「に」は下に必ず用言が来る』としている。

してみると「恩に着る」にこれを当てはめるに、「恩」というものに対し、「誰に」「誰の」という主体、客体の問題は脇において、「成り行き」として生起しているこの「恩」というものの生起している場所(スペースという意味でなくエリアといえる漠とした領域、あるいは圏とでも)と捉えているのだろうか。「着る」を大辞林で引く。「身につける」のほかに「引き受ける」「身に負う」という意味があった。例とし「恩ヲキル/ヘボン」と記されている。ヘボンの明治初年「恩を着る」といっていたのか。西洋人であるがゆえの誤記か、それはわからない。ところが古語辞典をみてみると(「き」(着)という見出しでみる)、「着る」について古語辞典の「き」(着)によれば、「衣類を身につける」、「笠や烏帽子などを被る」、「袴などをはく」とあって、さらに四番目の語釈に「こうむる、受ける」とある。

「あまりに御めぐみのいつくしくわたらせ給えば、よその聞こえもありて、思ひなどをきさせ給ふらん」(雨若御子物語)の例と日葡辞書の例「ソナタノヲンヲキヌ」を示す。してみると、ヘボンは日葡辞書を参照したとわかった。それにしてもいずれも「を」をつかう例だ。

「ヲンヲキヌ」だったのだろうか。その時代17世紀の初頭の日本では「恩に着ぬ」ではなかったのだろうか。「謝恩」という。「恩を謝す」と訳さずに「恩に謝す」とする。「恵みに感謝」というが「恵みを感謝」は誤りとは言えないが、今では言いそう、だが伝統的ではないということか。主体、客体、目的語をはっきりさせる流れは西洋言語の流入にともなう現象なのだろうが、格助詞「に」に日本語の伝統が息づいていたということなのだろうか。

(寄り道が長すぎたかもしれない。先に行くことにする)

 願い出た次第だ・・・「次第」とは現在に至るまでに物事がたどった道筋、事情。「かような次第で面目無い」「ことの次第を話そう」。
「とかくこの世は金次第」「成り行き次第」「手当たり次第に投げつける」「満員になり次第締め切り」とよくつかわれる。

 知らないに越したことはない・・・「知らぬが仏」という。
「・・・に(こす)こしたことはない」とつかう。「給料は高いに越したことはない」
「これに越す幸いはございません」

 まぶたの裏に思い浮かべてみても・・・「まぶたの裏に思い浮かべる」は慣用的な身体的表現。「瞼の母」ということばから演劇の舞台を思い浮かべることのできるのはいくつぐらいまでの人たちだろうか。忠臣蔵をなんのことか知らない若者がいる時代だ。大げさに言えば文化的伝統の断絶なのだから、由々しきことと言わねばならない。

 ぞくりと肩をすぼめた・・・肩を「開いていたものを閉じる」ような動作をいう身体表現だが「ぞくりと」でよけい生な生なしくなる。肩をすくめる、首をすくめる(ちぢこませる)ともいうが、やってみると同じような動作。
本文の場合「ひどく頼りない気がして」とあって肩をすぼめたのだが、どんな気持ちかぴんとこないところがある。複雑な気分ということだろう。なにしろ「珍なる」行動の結果もたらされた反応なのだから無理もない。
ちなみに、身体が「すくむ」のは恐ろしさや緊張のあまり、身が「すくむ」のは恥ずかしさで小さくなる様子をいうそうで、「身体」「と「身」で違うとは。「体がすくむ思い」と「身のすくむ思い」とするとなんだか違いを感じる。面白いことと思うが、使い分けていただろうか自信がない。意味内容自体ではなく、その「文字」「ことば」がもたらす語感が幅を利かせているといえるだろう。

 ひょっこりすがたをあらわした・・・井上ひさしのテレビ番組で当時の子供達にすっかり定着したことば、擬態語「ひょっこり」。彼の言葉を紹介しておこう。擬態語と擬音語をあわせて「オノマトペ」という外国語があり「自家製 文章読本」という本に「オノマトペ」という一章がある。その中でこう言っている。

 「日本語の動詞は弱い。そのままで用いると概念的になる。まだるっこい、的確さを欠く。動詞にはオノマトペという支えが要るのである」

 「オノマトペは具体的、かつ感覚的である。強い力があって読むものを「場面」へ、現場へ引き摺りこむ。ちなみに「引き摺りこむ」は三連動詞であるが、それはとにかくそんな力を保つために、オノマトペは詩歌では重要な武器だ。芭蕉の

にょきにょきと帆柱さむき入江哉

という発句においてはオノマトペがすべてである。この擬態語の発見に芭蕉は一瞬、命を賭けている」「ひょっこりすがたをあらわした」とただの「すがたをあらわした」を比べてみればいい。具体的で直感的と概念的の違いである。

 気に染むような・・・古いことばといってよかろうが「「意に染まぬ(染まない)結婚」ということばなら聞いたことがあるだろう。

 不如意な状態・・・これも古いことばではある。思い通りにならないことを言う。また経済状態が苦しいことを言う。「手もと不如意につき」とつかう。借金を人に頼むときは必須用語。

 まだあたたかい血潮のしたたる美人の生首・・・「あたたかい」とか「したたる」とか「美人とか」「血潮」とか「生首」とか、それぞれの単語がこれしかない順序で並んでいる。その全体でひとつの体言となって「ころがり出た」の主語として「一語」のように(一つの概念、映像として)働く。わたしがかねて主張してきたことで、わたしの「一語理論」と称している。

 豆腐でも切るように難なくすぱりと切りおとした・・・「すぱり」断ち切るさま、「さくさく」「ざくざく」「ざくり」「ざっくざっく」「ざっくり」「じょきじょき」「すっぱり」「すぱすぱ」「ちょきちょき」「ちょきり」「ばっさり」と「オノマトペ」は多彩だ。
先ほどは一語のように働くといったが、これは「一文」から主語をはぶいた。「文」の場合、語順が変わっても文の表現する情報は変わらない。

a)「難なくすぱりと豆腐でも切るように切りおとした」
b)「難なく豆腐でも切るようにすぱりと切りおとした」
c)「豆腐でも切るようにすぱりと難なく切りおとした」

いずれの語順でも文法的に難があるなどということはない。より良いのはどれかという議論は可能だろう。最も良いのは澁澤の本文だが、次はどれか。
b)ではないか。「すぱりと切りおとした」を離さない方がよいと判断した。さきほど引いた井上ひさしのことば「動詞にはオノマトペという支えが要るのである」がその理由。しっかりとささえるには密着していた方がいい。つまり「すぱり」は刃物の素早い運動が写されているのだ。

 ついぞ聞いたことがない・・・「終ぞ」は「その行為や状態をこれまで一度も経験したことがないさま」で「いまだかって」と同じ。「ついぞ会ったことがない」「ついぞ聞かない話」とつかう。今では、この言葉をついぞ聞いたことのない人もいるかもしれない。

 そういうお紺にしてからが・・・「してから」は「して」と「から」が連結して一語と同じ働きをする連語。「・・・にしてから」とつかい「・・・でさえ」「・・・でも」と言い換えられる。今どきの言い回しとは言えまい。

 龍を見たことがあるわけではない・・・「わけではない」という言い方は「物事・状態を、それにふくまれている理由・事情などをも含めて漠然と指す」と辞書はくるしい説明をしているが、「絶対にいやだというわけではない」といわれれば誰でもその意図するところは了解できる。断ったわけではないということが。
「龍を見たことがあるわけではない」というのは「見て、とっさに龍だと思った。龍にちがいいないと思った」がすぐあとにあるので、言わんとするところはわかる。実在を疑われる「龍」をみたことがあるわけないのに、「とっさに龍だと思う」「ちがいないと思う」のは、ありえないのにあった、という事情が「あるわけでもない」に含意されていたのだ。ややこしやあ。

 よもや・・・あるまい・・・「よもや」は「下に打ち消しの語を伴って可能性が皆無ではないが、いくらなんでもそのような事態は起こらないだろうと予想する気持ちを表す」とされる。「よもや化け物ではあるまい」と漱石「草枕」からの用例がのっている。「よもや明智の軍勢ではあるまい」「よもや宝くじにでも当たったのではあるまい」のように・・・のところになんでも入れて使える。「よもや」の語感も今風ではない。「よもやま話」というのがあるがこれは無関係。

 てんから男ぎらい・・・「てんから」は「多く否定的表現を伴って最初から考慮の及ぶ範囲にないさま。類語は多く、当然それぞれ微妙に違うニュアンスをもつ。以下いくつか検討しよう。

はじめから男ぎらい。
のっけから男ぎらい
(「はじめ」「のっけ」は同じ意味。時間的にいって始めということ。人にいうのだから、生まれた時から、ごく子供の時から、娘になり初めの頃から。)

あたまから男ぎらい
天から男ぎらい
(「最初から考慮の及ぶ範囲にない」というのは時間的なことだけではない。もともと考慮の外という含意)

てんで男ぎらい
まるっきり男ぎらい
(この場合は時間の前後ではなく、量的に100パーセントからゼロパーセントと考量していくとゼロパーセントに近いということ)

以上の三つに分類して考えた。
さらにいうと、「最初から」の気分を「天」に感じるかどうか。「天地のはじめ」というけれども。「頭から」の方が最初という語感をすぐに感じる。
「のっけ」も初めの意味だが、由来は何か。「のっけから」と聞くと江戸弁かしらと思う。
ちなみに「仰に」は「のっけに」とよむ。「あおむけに」の意。「義経千本桜」に「のっけに反り返る」とあるそうだ。「のけぞる」という言葉がある。

「男ぎらい」にどうやら関わりすぎたので先へ。

 どうにも話にならない・・・打ち消しを強調する「どうにも・・・ならない」。「どうにも手の施しようもない」とつかう。「どうにもこうにもどうしようもない」というのもある。「なんとも」と同じで「どうにも困った」ということもある。ほんのちょっと以前には、よく聞いたセリフのようにも思うのだが。

 差し出がましい口をきき・・・「差し出がましい」は「出しゃばったり、余計なことをするような感じ」という意味。
「その状態に似ていることをあらわす」接尾語の「がましい」は口にした音そのもが印象的というか面白い。「・・・らしい」ということなのだが、それだけににとどまらない語感がある。「未練がましい」「押し付けがましい」「恨みがましい」「みだりがましい」
などの例を並べてみると「がましい」はあまり好感の持てるようなことにはつかわないのだろう。